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第13週 木曜日 作家・歌人・漫画家 赤染衛門

13人目の歌人は平安時代中期に活躍した中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人赤染衛門です。


赤染衛門(あかぞめえもん)は、天暦10年(956年)頃赤染時用の娘として生まれました。

しかし、赤染衛門の母親が前夫である平兼盛と婚姻していた頃に懐胎した後、再婚先である赤染家において、赤染衛門を出産したために、実父は平兼盛との説もあるそうです。

後に、平兼盛は娘の親権を巡り、現夫の赤染時用との間で裁判を起こすが敗訴している。

赤染衛門は貴族・歌人・儒者であった大江匡衡と貞元年中(976~978)に結婚します。


大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲より、匡衡衛門と呼ばれたそうです。


赤染衛門は大江匡衡との間に大江挙周・江侍従など7人の子どもがいるそうです。

赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕えており、紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔らとも親交がありました。



その後匡衡の尾張赴任にもともに下向し、夫を支えました。

また、子の挙周の和泉守への任官に尽力して成功させたり、また重病を患っていた際、「大江挙周の重病の原因は住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は挙周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき」(【現代語訳】(息子に)代わり、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくはないけれど、その祈りが叶い、(息子の大江挙周と)別れることになるのは、悲しい。)

との和歌を住吉神社の祭殿に奉納して、赤染衛門の挙周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、挙周の重病は根治したという逸話が残っています。



長元8年(1035年)関白左大臣頼通歌合出詠。長久2年(1041年)弘徽殿女御生子歌合出詠。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首が入集しました。

長和元年(1012年)に夫・大江匡衡が逝去した後は、と子女の育成に尽くしたことが伝えられています。


赤染衛門の歌風は、式部の情熱的な歌風と比較し、穏健かつ典雅なる歌風と評価されている。

赤染衛門の文学作品は以下のものが残っています。


文献『栄花物語正編三十巻』


歌集『赤染衛門集』



小倉百人一首に収録されているのは


五十九番  やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな (『後拾遺和歌集』恋680)

姉妹のもとに通っていた藤原道隆が訪れなかったため、姉妹の為、和歌を代作した歌と言われています。


赤染衛門については以下の専門書があります。



この日本史のヒロインの一人にも選ばれているようです。


百人一首Tシャツと言うのもあるそうです。

めぐめぐがすごいと思う赤染衛門のこと

1夫婦仲良しで7人もの子供がいたこと

2子どものために本当に尽くしたお母さんの逸話が現在まで残っていること

3夫婦で素晴らしい歌を現在まで残されていること






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