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第5日 金曜日 芸術家フジコ・ヘミング

ここでは音楽家画家など芸術に関わる日本の素晴らしい女性を紹介します。

第1回目は ピアニストのフジ子・ヘミングさんです。

フジコ・ヘミングさんは 1932年12月5日。冬にお生まれです。
生まれたのはピアニストのお母さんとお父さんはスウェーデン出身の画家・建築家のお父さん。お互いが活躍するドイツのベルリンでした。

やがて弟も生まれ生活も厳しくなり、家族でお母さんの実家のある日本の東京に帰国します。お父さんは日本に馴染めず、家族を置いてスウェーデンに帰国してしまいます。


6歳からお母さんの手ほどきでピアノを始めます。

10歳からお父さんの友人であり、ドイツでのお母さんのピアノの先生であったロシア生まれのドイツ系ピアニスト レオニード クロイツァーに師事します。

クロイツワーは日本のピアノ教育に大きな影響を与えた人です。
小さい頃からこのような先生にレッスンしてもらったという事は生涯のピアニストとして活躍する基礎の基礎がしっかり身についたということでしょう。

フジコさんはその時代のことを厳しいお母さんの記憶とともにお話ししていたのをTVで見たことがありますが、やはりたくさんの辛い時期を超えて今80代でコンサートをいくつもこなすピアニストと活躍なさっているその成功の理由は、やはり幼少期のピアノ教育にあると思います。

さてピアニストとしての才能の開花は、同じく10歳の頃。しかし戦争に突入し岡山に疎開(その時弾いたピアノが今も岡山に残っているそうです)
し、学徒動員なども経験されています。

終戦後青山学院高等部に転校し、17歳でデビューコンサートを果たします。
東京芸術大学音楽部に進学し、新人音楽家の登竜門であるNHK毎日コンクールに入賞。その他いくつかの賞を受賞して大学卒業。ピアニストとして順調なスタートを始められました。

ヨーロッパへの留学を志しパスポートを申請した際、無戸籍であることが判明し、ここから厳しい時代が始まります。
なんとか赤十字の難民として1961年ベルリンに留学が決まります。奨学金とわずかな母からの仕送りでの生活は苦しく、大変厳しい時代を過ごします。

そんな日々の中ついにピアニストとしてコンサートを行う機会が来ます。ウイーンの作曲家および指揮者ブルーノマデルナに才能を認められ彼のソリスト契約も行われます。
しかしリサイタルの本番前に風邪をこじらせコンサートはキャンセル、聴力を失ってしまいます。

16歳の時右耳の聴力を失い、ヨーロッパで左耳の聴力を失い、ピアニストとしての活動を中断しなくならなければなりました。

耳を治療しつつ、音楽学校の教師の資格を得て、ピアノ教師をしながら、音楽活動を1995年までヨーロッパで続けられました。


そしてお母さんの死後に34年のヨーロッパ滞在を終え、日本に帰国して、日本でも再びコンサート活躍を始めます。

1999年NHKのドキュメント番組でその人生が取り上げられて大きな反響を呼び、フジコブームが起きました。

その後発売されたデヴューCD奇蹟のカンパネラは発売後3か月で30万枚のセールスを記録して、第14回日本ゴールドディスク大賞「クラシック アルバム オブザイヤー」などを受賞しました。

こうして再びピアニストとしての素晴らしい時代が帰ってきました。1999年10月の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに、日本国内のコンサートホールでのリサイタルはもちろんその舞台は世界に広がっています。例えば2001年6月にはカーネギーホールでのリサイタル、2019年にはパリでの有名コンサートホールでのリサイタルが行われました。
現在2020年もそのコンサート活動は続いています。


ピアノ以外にも絵画裁縫書水泳などの趣味を持っておられ、現在までに書きためた絵は本や自身のCDジャケットに使われています。また個展も開いておられます。


いくつかのフジコ語録が有名です。
「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」

「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」(『ラ・カンパネラ』について)

「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。」

「一つ一つの音に色をつけるように弾いている」


(「あなたにとってピアノとは?」と訊かれて)「猫達を食わせていくための道具ね」

「それでも私は、永遠に、永遠に生きて永遠に、弾くことは出来るわよ」

めぐめぐの思うフジコさんの素晴らしい点は以下の通りです。

1ものすごい厳しい練習を耐えて小さい頃ピアノを学んだという点。本当に厳しい練習だったと想像しますが、それ以上にピアノを弾く事はフジコさんにとって楽しいものでったということだったのだと思います。

2ヨーロッパの厳しい時代を乗り切られたのは、何とか成功したピアニストになって欲しいというお母さんに会えるまで帰らないという信念と、そこで自分の負けを認めたく無いという気持ちがあったのではないかと思います。

3今現在82歳でもコンサートを続けておられるのは、猫の餌のためということ以上にやはりコンサート出来なかった時代を取り戻したいという本人のお気持ちなのではないかなと思います。

猫付きで犬好き動物を愛するのフジコさんが今日本で受け入れら続けるのは、

1完璧じゃなくて良い。間違ってもいいよということをちゃんと言ってくれること。

2フジコさんの演奏に人生の春夏秋冬が現れているので、その演奏を聴くと自分の特に辛い時を思い出すこと。

3母との関係に苦しむ娘の気持ちが同じ娘として同感し応援したくなる

という点にあるのではないかと思います。


音楽家は美しく(格好良く)すごい業績がなければ有名になれないという日本の考え方を変えた素晴らしい芸術家がフジコさんです。

ますますお元気でコンサート活動を続けられますようにと願っています。


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