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第3週水曜日教育者 黒澤止幾

教育者の3人目は日本最初の小学校教師の黒澤止幾です。

参考文献はこちらです。

1807年1月29日黒澤とき(名前には止幾・登幾・止幾子(ときこ)といくつか伝わっているそうです)さんは常陸国茨城郡錫高野村(桂村を経て現・茨城県東茨城郡城里町)に生まれました。

家は私塾(寺子屋)も開いていた修験道場(しゅげんどうじょう)の宝寿院です。幼い頃に父と離別した止幾さんは、祖父や養父から漢学、国学などを学んで育ちました。

止幾さんは26歳で夫と死別すると実家に戻り、その後20年間、櫛(くし)や簪(かんざし)の行商で生計を立てました。

行商は関東一円に及び、草津(群馬県)や七会村塩子(しおご)(城里町)では、豊かな知識と才能を見込まれ地元有志の子弟たちの教育にもあたったそうです。

また各地の文人と交流し、俳諧(はいかい)、漢詩、和歌などを学んで文芸の世界にも親しんだことがつたえられているそうです。

安政元(1854)年、止幾さん44歳の時養父の私塾を受け継ぎ、多くの門弟に囲まれて穏やかな日々を過ごしました。

しかし、4年後の安政5(1858)年止幾さん48歳の時、事件が起きました。

天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を調印した大老井伊直弼を詰問するため、押懸(おしか)け登城に及んだ前水戸藩主徳川斉昭らが謹慎させられ、世に言う「安政の大獄」が始まったのです。

これに義憤を感じた止幾は、斉昭の罪を晴らそうと単身京都に向かい、「国と主君を思う一念」を「長歌(ちょうか)」に認(したた)めて朝廷に献上しようとしました。たった1人、自らの信念による行動でした。

当時の女性としては驚くべきことで、このことによって止幾さんは「幕末勤王(きんのう)の女傑」と呼ばれるとうになりました。

止幾さんは捕らえられ、処罰を受けて常陸国(ひたちのくに)への立入りを禁じられました。しかし、密かに錫高野に戻って私塾を再開。彼女の高い教養と信念を貫く姿は門弟たちの尊敬を集めました。

 時代は江戸から明治に変わります。

明治5(1872)年に止幾さん64歳の時、学制が発布されると、止幾さんの私塾は錫高野小学校の教場となりました。同時に止幾さんは小学校教師に任命され、これが日本における女性教師の最初とされています。


1890年、85歳で死去。1907年に従五位が追贈されたそうです。


めぐめぐの思う止幾さんの素晴らしいところ

1幼いころにお父さんをなくされた後一人でおじいさん育てのお父さんから

男の子と同じように勉強されたこと。これは決して簡単なことではないと思います。

226歳でまた夫に先立たれ一人になったとき、行商をして子どもを育てたこと。生きるためにものすごく苦労されたけれども、決して教えることをあきらめなかったというのがすごいです。

3安政の大獄の時一人で京都まで行き君主のために行動する。これは現在普通の人が国会議事堂や皇居などにいって意見を述べるというのと全然違う、命を懸けた行動だったと思います。それが本当にすごいことだと思います。


日本初の幼稚園の先生は水戸出身でも東京で学んで洋行までされた方でした。そして日本の小学校の女の先生は三戸出身で地方だけで生きて、地方のために命を懸けた人でした。どちらも水戸出身というのがとても興味深いです。

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