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金曜日 芸術家 内海 桂子


第4週の芸術家4人目は今年8月に亡くなられた 芸人の内海桂子さんです。


1歳の時当時の深川区森下にて関東大震災に遭遇されます。
両親と共に着の身着のままで千葉県印旛郡木下町(現・印西市)の父方の親戚を頼って木下までずっと歩いて避難されます。しかし、母親は働かない父親に愛想を尽かし、桂子を連れて木下の親戚宅を出て東京に戻りその後ずっと東京で育てれます。
父はそのまま行方不明。
8歳 桂子さんが尋常小学校3年の時に、神田錦町の蕎麦屋「更科」に子守り奉公に出されます。
13歳の時 坂東小三寿らの手ほどきで三味線や日本舞踊を学んでいたところ、舞台からお呼びが掛り始め、16歳で高砂家と志松・雀屋〆子の〆子の産休中の代役で、と志松(山形一郎)と組み、浅草橘館で漫才初舞台を踏まれます。
20歳の時事実婚をされ、と志松氏との間に長男誕生が誕生します。
戦時中の1942年 と志松とコンビを解消し、三枡家好子の芸名で遊芸稼業鑑札取得されます。女子勤労挺身隊北支慰問班に加わり、奥満州まで巡業されます。
戦後は吉原で団子の売り歩きや田原町のキャバレーの女給をしつつ、時折舞台にも上がそして1946年 林家染団治一門の林家染芳(後の林正二郎)とコンビを組み、長女をもうけたため婚姻届を提出したが、戦後の混乱で染芳の本籍地・広島県呉市に届かなかったため、未婚だったそうです。
そして染芳がヒロポン中毒になり別離し、その後10名ほど相方を替えるという芸人として苦しい時代が続きます。
38歳の時1950年 林家染団治の紹介で、夫婦漫才荒川小芳・林家染寿の娘で、当時14歳だった内海好江を弟子に取り、コンビ結成されます
その後1956年 猛稽古を重ねて臨んだ第1回NHK新人漫才コンクールで優勝ならず、ショックを受けた好江が睡眠薬自殺を図るが助かるという事件がありました、。
その後は内海桂子・好江として輝かしいキャリアを築かれます。

1958年 第4回NHK新人漫才コンクールで漸く優勝。
1961年 芸術祭奨励賞受賞。
1980年 日本芸能実演家団体協議会功労賞表彰。
1982年 芸術選奨文部大臣賞受賞(漫才で初)。
1987年 第15回日本放送演芸大賞功労賞受賞。
1988年 花王名人劇場功労賞受賞。
1989年 紫綬褒章受章。
1990年 第7回浅草芸能大賞受賞。実娘と同い年で24歳年下である成田常也氏と事実婚生活を開始。
1994年 第45回放送文化賞受賞。長男が食道癌で死去(52歳没)。
1995年 勲四等宝冠章受章。

65歳の時42年コンビを組んだ、相方の好江さんが病死され、ピン芸人に戻る。
その後1998年 リーガル天才より後継指名され、漫才協団第5代会長に就任され
2007年名誉会長になえるまで会長の職を続けられます。
その年けがや病気などもされていますが、その後もツイッターをされたりあした順子・ひろしの順子とコンビAKB48(A - あした順子、K - 内海桂子、B - ババア、48 - シワだらけ)
として2020年なくなるまでメディアでも活躍されました。時流に敏感で、舞台でタイムリーな話題を織り交ぜているのはもちろん、ずっと公式HPやブログを立ち上げ自らの文章で更新しておられました。また毎年8月になると必ずTwitterに広島・長崎への原爆投下や終戦への思い、そして自らの経験にについて 「戦争が終わった安堵感」と「戦争仕掛人の手助けをした」という思いを語り続けられました。


めぐめぐがすごいと思う内海桂子さんのすごさ

1大変厳しい幼少期を過ごされていますが、その厳しい修行の時代をきっちりなさったこと。それによって生涯活躍される基礎を築かれたのだと思います。

2 42年のコンビを続けた好江さんと出会うまでも非常に長い辛い芸人人生を過ごされていますが、決してあきらめないその姿勢が素晴らしい相方と出会われたのだと思います。

3 また様々な形で愛に生きた方だと思います。そして最後また新しい形の夫婦生活の形を日本の女性に表した方だと思います。


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