娘が障害を負うまでの昔の話と、今と未来の話
ブログを始めた時に10記事に分けて娘が病気を持って生まれてきてから障害をおうまでの昔話とこれから書いていきたい今と未来の話を書いた。
noteにも、娘のことも書いていきたいので、ここに残しておこうと思う。
以下、ブログ「ぼくらはみんな生きていく」より抜粋。(2019年3月の記事)
はじめに
昔の話をしようと思う。
めいの出生直後からの病気のこと。
心肺停止のこと。
障害が残ったこと。
家に連れて帰ると決めたこと。
まだ幼いめいとの在宅生活にようやく慣れ始めた頃、旧ブログに吐き出すように並べた言葉がある。(時系列がややこしいのだけど2010年頃の私が、2006年の事を書いたもの)そのまま置いておこうかとも思ったのだけど、数年ぶりに読み返したら、
ああ、ろくに人に弱音も吐けなかった私は本当に馬鹿だなぁ。吐けばいくらでも受け止めてくれる人も、背中をさすってくれる人もいたのに。
でも、よく頑張ったじゃないか、私。
と、思ったのです。
よかったら、あの頃強がってばかりいた私の話、聞いてやってもらえませんか?
☆追記☆
病児、障害児の親御さんへ
娘の出生、病気告知、手術、急変心肺停止、障害告知、退院在宅移行までの記録です。とても苦しかった時期の話のため、読んでご自身が辛くなるようなことがあったら、無理して読まずに、途中で止めてくださいね。(2019.3.17追記)
(以下、旧ブログより抜粋)
2006年6月3日 めいが生まれた日
ちょっとばかり難産だった。
深夜12時に病院へ駆け込み徹夜で陣痛と闘かった。その割に子宮口が開かず、痛みだけは次から次へと襲ってくるし、ゲロゲロに吐き倒し、グロッキー。
翌日午後3時ごろ結局無理やり破水させられ急激にお産は進み、子宮口が後一歩で全開という頃に急に胎児心拍が落ちはじめた。目に見えて先生たちが慌てだし、すぐに分娩室へ。
父親立会いの約束をしていたのに、旦那は分娩室にいれてもらえず。焦る先生たちから予想外に受けた処置はなかなか壮絶で色々と痛い目にあった。私の足元で
「お父さんの立会いは…」
と看護婦さん。
「こんな状況見せられるわけないやろ!!」
と先生。
(その相談私の目の前でするんですか…)
分娩室前にいた旦那いわく、今まで聞いたことのないような苦しむ声だけがきこえてくるので「嫁が殺される」と思ったとか。
結局吸引分娩で、おなかの上には先生が乗ってぎゅうぎゅう圧迫、いよいよ出るか、という時、ぎりぎりのタイミングで旦那が分娩室へ。
生まれた!やっと生まれた!一応一瞬立ち会えた旦那、号泣。
早く抱かせてほしいと思っていたら、ほんの一瞬だけ私の胸の上に乗せられたあと、すぐにどこかへつれていかれるめい。
旦那に似て顎割れてるかわいい…
ん?まって。
様子がおかしい
顔色悪くない?
なんか…
色々聞きたかったのに、精根尽き果てたわたしは、す----っと眠りの中へ。ほぼ気絶。
めいは、そのまま旦那の付き添いで別の病院のNICUへ搬送された。
めいがNICUに搬送されていった後、産婦人科に残された私は大部屋希望だったにも関わらず諸事情によりやたら豪華な個室にうつされ、目が覚めたあとボーっとした頭でめいのことばかり考えていた。状況がよくわからずとにかく待つしかなかった。
ようやく旦那が帰ってきて、状況を説明してくれた。心配はいらない、ちょっと小さく生まれたから少しの間入院して様子をみてもらうんだ、と。
生まれてすぐにしばらく離れていなければならないことで、めいに寂しい思いをさせてしまうこと、自分も寂しい、早く会いたい、とか色んな思いがこみ上げて涙が止まらなくなった。
旦那は泣きじゃくる私に
「大丈夫やから、頑張ろう」
と、震えた声で言った。
どうして、旦那の様子がおかしいことに気づいてあげられなかったんだろう。めいはちっとも大丈夫なんかじゃなかった。体が小さいから入院したんじゃなかった。
2日後に私が初めて聞かされる医師からの告知を、このとき旦那は聞かされた直後だった。
産後間もない私の体と心を心配して、普段嘘つくのが驚くほど下手な旦那がこのとき一度きり、うまく私をだました。この日の優しい嘘は一生忘れない。
病気告知の日
出産から数日後、私の入院していた病院からようやく外出許可が出てめいが搬送された病院のNICUへ面会に行った。早く会いたかった。
けれど、病院に着くと、すぐにめいには会わせてもらえず主治医に別室に通され何だかいやな雰囲気。
気まずそうに先生が口にした病名は、聞いたこともない病気だった。
「新生児多発性血管腫という病気です」
なんですかそれは。
「すごく珍しい病気で、症例もかなり少なく治療法が確立されていません。」
え?
「予後が悪く、死亡率が50~95%程だといわれています。数ヶ月のうちに命を落とす子がほとんどなんです…」
え?
「新生児期に皮膚、内臓、脳、体中のあらゆるところに血管腫というできものができる病気です。腫瘍自体が血管の塊のようなもので血液で満たされているため出血のリスクが高く、その数も多数で何十個か、何百個か、そのすべてが生後半年頃まではどんどん巨大化していきます。大きくなり増えた腫瘍の分だけ心臓が作り出す血液量も増えるため心臓にもかなりの負担がかかります。腫瘍があちこちを圧迫したり塞いだり、影響は様々で…」
わけがわからない。
全身から血の気が引いていく感覚がして、座っているのに倒れそうになった。
先生がひとつひとつ今の状況や、どういう治療法を試していくかなどを丁寧に話してくれた。
こらえてもこらえても目から次々にこぼれる涙を止めることができず、その場突っ伏してしまいたかったけれど、先生の説明を一言も聞き漏らしたくなくて涙もぬぐわずに先生から目をそらさず必死で説明を聞いた。
一通り説明を聞き終え、必死で涙を止めて、めいに会いにNICUの中へ。意識はなく、呼吸器やチューブなど管だらけの姿を見ると、一度は止めたはずの涙がまた止まらなくなった。生まれたばかりの小さな小さなめいが、医療の力で生かされている姿に、なんとも言えない気持ちだった。
なんとかしてあげたい。なんでこの子なのか、私でいいじゃないか、代われるものなら代わってやりたい。それなのに、今私がこの子にしてあげられることなんて何もない。何も、できない。
だけど、だからといって、泣いていて何になるのだ。
30分ほどの初めての面会を終え、先生と看護士さんに頭を深くさげてNICUをあとにした。どうか、どうかめいをよろしくお願いします、と。
帰り道旦那と車の中で、めいのことをたくさん話した。生まれた日に聞かされていた旦那の気持ちを思うと胸が苦しくなった。この日までひとりでどれほど苦しかっただろう。
正直楽観視できる要素はひとつもなかったけれど、前を向くしかないのだから、一緒に頑張ろう、と話した。
めいの前で泣くのは今日だけだと、硬く硬く、決意をした日。
小さな小さな足。
体中管だらけで、両手は点滴でふさがっていて手を握ることはできなかった。
かわりに、かわいい足にそっと触れた。
(中指のつけね皮膚の奥にうっすら血管腫が見えている)
生後2週間初めての手術
体中にあると言われた血管腫。
ステロイド投与、成分輸血、治療を受けながら、それでもじわじわ大きくなる血管腫。
どんどん日々が過ぎていった。
口から挿管されていた呼吸器は数日で離脱できた。新生児多呼吸だった。
中でも特に厄介だと言われていたものがふたつ。
ひとつは胃の幽門部の血管腫。これはサイズが大きくなるにつれ胃から腸への流れを阻害する可能性があった。(その後実際大きくなった血管腫により胃から腸への通過障害が起き、わずかな隙間からEDチューブが入れられ、経腸栄養となった)
もうひとつは小脳の血管腫。
小脳にある血管腫の圧迫により、水頭症を併発しすぐにでも手術が必要だった。
水頭症には脳室と腹腔とを繋ぐよう、皮下にチューブを通す手術(シャント)が一般的とのことだった。
しかし、めいの場合はからだが小さいこと、全身状態が落ち着いているとは言い難いこと、皮膚や内臓に多数の血管腫があり、手術時に誤って血管腫を傷つける可能性が高いこと(大量出血のリスクが高い)などが理由でシャント手術は難しかった。
そこで、皮下にシリコン製の貯留槽を留置し、脳室に挿入した管と貯留槽をつないで貯留槽髄液をためさせるドレナージ手術が提案された。
頭皮から貯留槽へ直接針を刺し、髄液をポンプを使って持続的に体外に排出させる方法がとられた。
この方法も手術のリスクは高く、術後も針をさした部分からの感染のリスクもあった。だけど、選択の余地はないようだった。
あっという間に手術当日はやってきた。
手術は予定よりも大幅に時間がかかり、待っている間気が気じゃなかったけれど、めいは無事にかえってきた。
よく頑張ったね、強いね、と大きなガーゼに覆われた頭をそーっとなでた。
手術数日後。意志の強そうな目に見えて、きっと大丈夫だと思った。そう思いたかった。
2006.8 はじめての抱っこ
めいをはじめて抱っこしたのは生後2か月の時。
この頃体表の血管腫は大きいものはめいのこぶし大にまでなったいた。口元の血管腫を飴ちゃんのようにペロペロ舐め遊ぶ姿は危なっかしくもあり可愛くもあった。
ずっと抱っこができず寂しかったけれど、病状は悪く、頭には針が刺さっている上、あちこちにチューブやらモニターやら、とても身軽そうには見えないめいの姿に、抱っこさせてほしいとはとても言えずにいた。
そんな時、「今度の日曜日お父さんと一緒にめいちゃんを抱っこしてみましょうか!」というお話をいただき飛び上がって喜んだ。
待ちに待った抱っこの日。
揃いも揃って、私たちは寝坊した。(ばーかーやーろー!!)
貴重な面会時間、15分遅れて病院に到着し残り45分。
いよいよ抱っこの瞬間。
管や針や、様々なチューブにドキドキしながら、ぎこちない腕で、めいがしんどくならないように、出来る限り優しく、だきしめた。
くすぐったいような、鼻の奥がツンとして泣きそうな、不思議な気持ち。
治療に使われていた内服と点滴のステロイドの影響で成長は遅く、生後二ヶ月だというのに体重はまだ3キロしかなかった。
なんてちっちゃいんだろう。
それなのに、すごく重たく感じた。
めいの、いのちの重たさだ。
友人達にもらった出産祝いのお洋服。この日やっと着せることができた。
苦しい毎日だったけど、苦しみの中にちゃんと光も喜びもあったんだ。
2006.10 突然の転院
秋、状況が動いた。
「めいちゃんの手術を引き受けてくれる病院がみつかりました。明日すぐに転院しましょう。」
めいの身体中でムクムクと恐ろしいスピードで大きくなり続けていた血管腫。中でも一番の厄介者、小脳の血管腫。
切除するにも血管腫の切除自体が元々大出血のリスクは極めて高いのに加えて、めいの場合全身状態も悪く体中血管腫だらけで、治療のために使っていたステロイドの副作用でさらに出血のリスクは上がり傷の治りも悪くなっていて、手術は不可能だと言われていた。
それをなんとかやりましょうという医師が見つかった。
一筋の光がさした。
翌日、お世話になった先生や看護師さんにお礼とお別れを言い、早速転院。
急だったにも関わらず、めいへの寄せ書きをいただいた。
その後めいは先生と看護師さんに付き添われ、救急車で転院先の病院へ。
私は電車で2時間かけ、後を追いかけた。
新しい病院で一通り引き継ぎを済ませた先生と看護師さんをお見送りする時、ああ、本当にさよならするんだな、と涙が出そうになった。でも泣かずに頭を下げた。先生たちも目が潤んでいたように見えたけれど。
先生方がここまで守ってくれたいのち、めいにかけてくれた「頑張っておいで」の言葉をお守りにして、必ず元気に帰るから待っていてね、と強く強く念じながら見送った。
転院後
転院の少し前、体表の巨大化した血管腫は根元を糸で縛り血流を止め壊死させ取ることができた。背中のこぶし大の物も、口元の飴ちゃんともお別れできた。
新しい病院に着いてから、いくつかの検査を経て小脳の血管腫摘出手術に踏み切ることが正式に決定したが、やはりリスクの高い手術になる事は間違いなかった。
長期に渡るステロイド治療の副作用で傷の治りが悪く出血すると止まりにくく、感染のリスクもかなり上がるらしく、どうしてもステロイドを一旦やめる必要があった。ステロイドをやめるとせっかく落ち着いている血小板の値などが悪化する事が考えられたが、成分輸血で対応してでも薬をやめなければ、手術はできない。
手術までの間、心配していた通りトラブルは続いた。
長い間持ちこたえてくれていた脳室ドレナージが、脳室から浮き上がってしまい再留置手術が必要になった。中心静脈カテーテルの留置手術も2度頑張った。容態が悪化しひやひやさせられることも何度かあった。
そうこうしている間にも身体中の血管腫はどんどん大きくなっていく。前に進むしかない状況の中、死をいつもどこかで覚悟している、綱渡りの様な日々だった。
苦しい状況の中で私の気持ちをを支えてくれていたのは、やっぱり旦那と、他でもないめい自身だった。
県外まで毎日片道二時間かけて面会にいったが苦にはならなかった。どうしても毎日会いたかった。
めいは私の顔をみてはニコニコ笑い、わーわーとたくさんおしゃべりをしてくれた。面会時間中黙っている時間の方が短いくらい、今思えば相当おしゃべりな赤ちゃんだったと思う。
大きくなったらお喋りなおしゃまさんに育つんだろうな、とぼんやり未来を想像したりもしたりしながら、死ぬかもしれないと言われていた手術の日を、指折り数えて待っていた。
2006.11 小脳血管腫摘出手術当日
トラブル続きのままなんとか迎えた手術当日。
いよいよ開頭し小脳の大きな血管腫を取り出す。
手術予定時間は9時間。死亡リスクは高い。
覚悟はしていたのにいざ送り出すとなると怖くてたまらなかった。
朝9時。かならず元気に帰ってきてね、と見送った。
頭の中ではもしかしたら…と嫌な考えが止まらない。
家族待合室で待つ。ひたすら待つ。テレビもついているし、雑誌や本もあるのに、読む気にもならない。寝て待つかとも思っても、疲れているのに眠れない。旦那も落ち着きがない。
手術終了予定の6時を過ぎてもなんの連絡もなく、めいは戻ってこない。気になって待合いを出たり手術室の近くまで行ったりウロウロしたり、気が気じゃなかった。
どうして帰ってこないの、もしかしたらうまくいっていないんじゃ…
結局何の連絡もないまま夜の8時。
神経もすり減りクタクタになった頃、手術室からようやく連絡が入った。
「終わりました。めいちゃんよく頑張りました。」
腰が抜けるかと思った。
手術室から出てきためいはちょっとぐったりして、私たちの顔を見るなりかすれた声で泣き出した。
本当に生きてる。
めいが生きて帰ってきた。
病気告知の日以来初めて、めいの前で泣いた。
この時「元気になりますように、治りますように」という願いがやっと、「この子は生きていける、元気に私たちのところへ帰ってくる日は来る」と現実味を帯びた未来のように思えた瞬間だった。
術後しばらくして迎えたはじめてのクリスマス。初めての子供がそばにいないままに購入した帽子はぶかぶかだったけど泣けるくらいかわいかった。
2007.1 またあした
小脳の血管腫摘出手術は成功したものの、術後の体調はなかなか安定しなかった。
輸血が必要になったり、一度取れた呼吸器がまた必要になって挿管したり。手術前まで治療に長期使用していたステロイドの影響もあったようで、傷の治りも悪かった。
手術そのものも危険だが、術後に感染症や呼吸不全を起こしてしまう可能性が高いことも聞いていたので、毎日毎日ハラハラしていた。
そんな状態のまま年が明けて数日たった頃、ようやく呼吸器が外された。
少しゼーゼーいっていて、泣くとSPO2が(血中酸素濃度)が下がったりもしてけれど、呼吸器をつけなくてもなんとか大丈夫なところまで回復しているのではないか、との事だった。
泣くとSPO2が下がるのに関しては、結局原因はわからないままだったが、表情も明るく、毎日毎日ニコニコ過ごせるようになっていった。
だっこしてー!のポーズ。
目が合えば笑い、甘え泣きをして抱っこをせがむめいがかわいくて、仕方がなかった。早く元の病院に帰って、それから、おうちに帰って、それから、それから…
今までしてあげられなかった事、してあげたい事がたくさんあった。
抱っこしてあげられる事が嬉しくて、眠ってしまっためいをなかなか離せなかった。
そんな中、ようやく元の病院に帰れる事になった。
救急車にゆられ、今度は私も付き添って元の病院へ。
意外と揺れる救急車、乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったけれど、早く帰りたくて、心は弾んでいた。
病院に着いて運び込まれたのはNICUのお隣、回復室のGCU。
それはめいが元気になって帰ってこれた証拠のように思えた。先生や看護師さん方みんなが、「おかえり!」と笑顔で迎えてくれた。
ただいま!約束通り元気に帰ってきたよ。
「一旦はGCUに入るけれど、これからは一般病棟に移って母子入院して、お家に帰る練習をしていこうね。」
と、説明を受け、退院に向けての具体的な話も進んでいった。
一般病棟の見学をしたり、家に帰った後の計画をしたり、いよいよ帰れる日も見えてきてわくわくしていた。
GCUで数日間過ごしたある日、相変わらず泣くとちょっとしんどくなって、なかなか酸素だけは手放せなかったので、めいの顔の横にはいつも酸素マスクが置かれていた。めいはそれが自分に欠かせないものだという事をしってか知らずか、その酸素マスクを器用に触り、ゴソゴソと遊んでご機嫌。
酸素マスクで遊ぶ。
泣いてさえいなけえれば、本人もケロリとしていた。「めいちゃん大物やな〜」とみんなで笑っていた。
泣いてしんどくなる原因はまだはっきりせず、先生たちも小首をかしげていた。
じっと手を見るブームが来ていた頃。
面会時間が終わり、帰る時間。
今日はまた帰らなくちゃいけないけれど、もう少ししたら、面会時間なんて気にせずに、毎日ずっと一緒にいられる。
めいを抱きしめて、「また明日まで、良いこに待っててね。またあしたね」と声をかけて、その日は帰った。
元気なめいに会えたのは、これが最後。
急変
またあしたね、とめいと別れたその日の深夜一時。
いつも通り布団に入りウトウトしかけた頃、私の携帯が鳴った。
慌ててとびおきると、めいの入院している病院からの電話だった。
「めいちゃんが急変しました。すぐに病院に来てください。」
一瞬で血の気が引いた。
旦那を起こし、2人ですぐ病院へ向かった。病院までは車で20分。
病院につくまで私も旦那も一言も喋らなかった。頭によぎった考えを口に出すのが怖かった。
到着するなり顔なじみの看護師さんが血相変えて駆け寄ってきて、めいのもとへ案内された。
数時間前までGCUにいたはずのめいはNICUに移され、昼間の様子とは別人のようだった。
呼吸器を挿管され、目は上転し痙攣が止まらない。
どれだけ呼んでも、体に触れても、一切反応しない。
その場で先生からの説明があった。
突然呼吸トラブルが起こり、そのまま心臓も呼吸も止まってしまったという。
10分間、戻らなかった、と。
何も言葉が出なかった。涙すら、出なかった。
一瞬、先生を責める言葉が飛び出しそうにもなったけれど、パジャマ姿に白衣を羽織りボサボサ頭の先生を見たら、当直でもないのに、夜中なのに、すぐに駆けつけてくれた事がわかって、何も言えなかった。
めいはこちらを見ることもなく声も聞こえているのかわからない。
目は開いていたけれど意識があるのかもわからない。
どうして、こんなことになったのか、わからない。
手を握り、体をさすりながら
「お願いやから頑張って、頑張れ、頑張れ…」
何回も同じ言葉を繰り返した。
旦那は何も言わなかった。きっと言えなかったんだろう。
そのまま朝までめいの側にいた。
「ひとまずは落ち着いたから帰って休んで…」
と看護師さんに促されて一旦自宅に戻ることになった。
旦那はそのまま一睡もせずに会社に行き、私も仮眠を取ろうとしたけれど結局一睡もできなかった。
もうお家に帰れる日も見えて来たと思っていたのに、どうしてこんなことになるんだ、と同じ事ばかり考えていた。
眠れぬまま、また日中の面会時間、NICUに向かった。
先生からめいの呼吸トラブルの原因は気管支軟化症だったことがわかったと告げられた。
本来硬いはずの気管が柔らかくなり、特に泣いたりすると気管がへしゃげ、息が吸えなくなるのだという。めいの場合はそれが気管支で起きた。
こんなことになる前に呼吸の異常がいくつかあったのに検査に踏み切って異常の原因を発見できなかったことを、何度も先生に謝られた。
この時はめいがしんどい思いはさせたけど、なんとか戻って来てくれたなら、助かったなら、と思っていた。
安静をはかるために、めいはその日から薬で眠らされたままになった。寝ている顔には生気などまったく感じられなかった。毎日毎日、声をかけ続けても触れても、やっぱり反応はなかった。
薬を切れるくらいに体調が落ち着き、意識が戻ればまた笑顔が見れるだろうか。
10分も心肺停止だったのに、脳へのダメージはなかったのだろうか。
本当に、元のめいに、戻れるのだろうか。
口に出すのがこわくて、聞けなかった。
そのまま2週間が過ぎた頃、先生から話がある、と声をかけられた。
心肺停止直後は確認できなかった脳へのダメージが、はっきりしてきたと。
以前のめいには戻らないと。
先生の目にはうっすら涙が浮かんでいて声は震えていた。
この時にも何度も、何度も謝られた。
低酸素性虚血性脳症という診断だった。
長く呼吸と心臓が止まったために脳に重大なダメージが残ったと。
どこかで覚悟をしていたやけに冷静な自分と、先生や看護師さんを責めたい、その場で大声で泣き出したい自分が頭の中でぐるぐると、回っていて、激しい吐き気とめまいがした。だけど。
目の前にいるのはこれまでお世話になった、一緒に乗り越えてきてくれた、ずっと支えてくれた、めいも私も大好きな先生と、看護師さん達。
結局その場で泣く事も責める事も、できなかった。
その日の面会を終えロッカールームに戻って一人になった時、2週間出なかった涙が、一気に溢れて止まらなくなった。一人で、その場にしゃがんで声を殺して泣いた。
どうしてめいばかりがこんな目にあわなきゃならないんだ。
めいだって、家族だって、ずっとずっと頑張ってきたはずなのに。
神様なんていない。くそったれ。
やり場のない怒りと悲しみと苦しみをどこにもぶつければいいのかわからず、心は限界でボロボロだった。
もう二度と笑いかけてくれないのかと思うと胸が押しつぶされそうだった。
2007.2 はじめての祖父母面会
めいの急変から数週間が経った頃、祖父母面会の提案がされた。
めいの入院している病院のNICUでは、祖父母の面会は許されていなかったのだけど、急変した事と退院の目途がたたない事や病状の悪さが考慮され、特別に面会が許可された。
めいが頑張っていた同じ時期、もう一人頑張っていたのが癌の闘病中だった義父だ。
病状は思わしくなく、会うたびに
「僕は、もういつ死ぬかわからへんから…」
とこぼしていた。
とても強くて優しい人だったけれど、病気が弱気にさせていたのだと思う。
義父が近々手術を控えていた事も、祖父母面会の許可がおりた理由のひとつだった。
面会当日まで、看護師さんや先生達は何度も話し合いを重ね、どうすれば安心して良い時間を過ごせるか考えてくださった。
面会当日、私と義父母の3人での面会。
めいに会ってもらうのはこの日が初めてだった。本当は元気な姿で、笑顔で、会ってもらいたかったけれど。
めいの意識は相変わらずないままで呼吸器も挿管されたままだった。
私が呼吸器の回路を持ち、義母がめいを抱っこしてくれた。
義父は、こわい、とだっこはできなかったけれど、めいの顔がよく見えるように、あっちへいったりこっちへ来たりウロウロして、時折とびきり優しくめいの頭をそっと撫でてくれた。
「自分の子供(旦那)が赤ちゃんの時も怖くてしばらく抱っこできひんかったもんやから…」
と少し照れて、笑いながら教えてくれた。
面会時間はあっというまに、和やかに終えられた。
めいのしんどい姿を見せて、余計な心配はかけないだろうか、NICUの雰囲気に戸惑わないだろうかと心配していたけれど、義父も義母も
「会わせてもらえてよかった。」
と言ってくれた。
帰り際、義父が
「あんなに頑張ってるんやから、僕も頑張らなあかんな。」
とポツリと呟いたのを、よく覚えている。
義父はそれから亡くなるまでの1年半、それまで会うたび口癖のようにこぼしていた
「もういつ死ぬかわからへんから」
という言葉を私たちの前で一度も口にしなかった。
頑張るめいの姿がくれたもの。
2007.4〜7 おうちへかえろう
めいの呼吸状態はなかなか改善せず、気管切開する方向で話が進み始め、より呼吸疾患の治療や手術に長けた病院へまた転院することになった。
転院先の病院で検査などを繰り返し二か月ほどたったころ、めいは一歳になった。
この頃になると鎮静の薬は切ることができていて意識はあったけれど、やっぱり以前とは違い、笑わず動きもほとんどなくなっていた。
表情はなくなり反応もほとんどしなくなってしまったけれど、いっぱい話しかけ触れ続けた。
そんな中、気管支軟化症の改善が見られ、呼吸器の抜管ができた。
気管切開の覚悟もしていた中で、ようやくいいニュースが聞け、とても嬉しかった。
転院先で呼吸器の抜管に成功後、元の病院へ戻り、今度は小児科一般病棟に移りようやく初めての付き添い入院が始まった。
とはいえ全身状態は安定しておらず、一日中血液混じりの嘔吐を何十回と繰り返し、酸素は手放せずSPO2を下げる事もしょっちゅうだった。
昼夜問わず泣き、吐いて、また泣いて。
やっと眠っても、私の足音、コップを机に置くコツン、という音など、本当に小さな物音で目を覚まして起きてしまい、大泣き…きっとものすごくしんどかったんだろう。
抱っこしていると幾分落ち着くようで、ほとんど一日中抱っこしていた。
いつも難しい顔をするようになっていた。なかなか目が合わない。
私はというと、食事、シャワー、トイレなど、めいの落ち着いている少しの時間を見計らって、すごいスピードでこなすようになっていった。
睡眠に至っては夜間にまとまって寝れるのは30分程で、日中めいを抱っこしながらうたた寝ばかりしていた。
個室の中で携帯電話も使えない状態で2人きり。(当時は院内携帯禁止、病院の外に出ないと携帯を使えなかった)
正直気が狂いそうになることもあったけれど、それでも一緒にいられる喜びの方が大きかった。
病棟に移ってから1ヶ月程経ち、吸引や栄養剤の注入などの医療的ケア、一通りのお世話をこなせるようになり、そろそろ退院も見えてきた頃、脳のMRIの検査結果が出た。
一般病棟に移ってから変わった新しい主治医から、厳しい告知をされた。
「思っていたよりも脳の損傷がひどく、大脳はほぼ全滅し機能していないし、残っているのは脳幹と、ほんの一部分の小脳だけです。
植物状態に毛の生えたような状態。
一度死んだ脳細胞は蘇る事はないので、今後めいちゃんは歩く事も、お話する事も、コミュニケーションを取れるようにもならない。
笑う事ももうないと思います。一生寝たきりです。
ただ、子供の力はすごくて、残っている脳の一部が死んだ部分の役割を担ってくれる事もあるので、リハビリを頑張ってください。」
告知の内容はそんな内容だった。
ああ、やっぱり、そうか。
急変後、笑いかけてくれる事もなくなった。
目も合わなくなった。
あんなにやんちゃに動かしていた可愛いおてても、固く握りしめたままで、不随意運動をくりかえすだけになった。
あんなに大好きだっただっこをせがむことも、甘え泣きも、しなくなった。
わかっていたけど。
説明は私一人に聞かされたので、仕事中の旦那に電話で伝えた。
できるだけ冷静に伝えたつもりだったけれど、冷静なんかじゃないのは旦那にはバレバレで、その日の夜仕事を終えてすぐに病院に会いにきてくれた。
それからめいを抱きながら、二人でたくさん話をした。
めいも家族もたくさん苦しんで、たくさん後悔もした。
けれど、現実にめいは生きている。
重い障害が残ったって、生きていてくれれば、側にいてくれればそれだけで良い。
その後しばらくして、退院してめいを家に連れて帰るか、施設に預け手放すかの二択を迫られた。
迷わずうちに連れて帰ることを決めた。
みんなで一緒におうちにかえろう。
付き添い開始から2か月。
めいが生まれてから1年2ヶ月がたっていた。
2007.8 笑顔のまんま
めいとのおうちでの生活が始まってから、1週間ほど経った頃、家族揃って初めての週末。
退院はしたとはいえ相変わらずな体調続きで、特にでかけるでもなく一日中まだまだ不慣れなめいのケアに追われてなんだかあたふた。
夕方少しめいが落ち着いていたので旦那と二人めいを囲み、ああでもないこうでもない、とめいを楽しませたくて体を触ったり動かしたりして遊んでいた。
さあ起きて遊んでみる?と、旦那がめいの背中側に回り私がめいの正面から腕をつかんで仰向けに寝転んでいるめいの体をゆっくり起こしていった、その時。
急変して以降一切笑顔を見せなかっためいが、笑った。
「今!めいが笑った!!笑った!!」
と夢中で叫んだ。と同時にぶわっと涙が溢れた。
背中側に回っていた旦那は見えなかったようで(実は相当悔しかったらしい)だけど二人大興奮で泣いて喜んだ。
もう二度と、一生、笑いかけてくれることはないのかもしれないと覚悟を決めていた。急変してから8ヶ月、初めての笑顔はとてもぎこちなくて、へたっぴな笑顔だった。
けれど、最高の笑顔だった。
めいとの在宅生活は、笑顔でスタートを切った。
あの時の笑顔は(私しか見ていないのが残念)今でも目に焼き付いている。
あれから少しずつ少しずつめいの笑顔が増えていった。
それからも数年はめいの笑顔はまだまだ稀で、たまに笑えばカメラを持ち出してお願いもう一回笑ってーーーー!!と大騒ぎするほどだったけれど、今は、目が合えば笑い、抱き上げれば、抱きしめれば、笑う。
今ある笑顔は、支えてくれる周りの人達が引き出してくれた笑顔。
私達の宝物。
よく笑うようになった4歳の頃。
さいごに。今の話とこれからの話。
本日2019年3月15日、めいは大好きな友達と先生に囲まれて、小学部を卒業しました。
卒業前に色々と昔を振り返る機会が多くあり、昔の話をブログに書き記しておくことにしました。
順風満帆ではなかっためいが生まれてからの闘病生活、その後こうして笑顔で始まった在宅生活でしたが、喜びもあれど、やっぱり順風満帆ではありませんでした。
毎日四六時中繰り返し起こるてんかん発作、嘔吐、叫ぶように泣き全身を反らし、笑いもせず苦しそうなめいに、私は何もできずただただ一日中めいを抱っこするだけの日々が続きました。
夜もろくに眠れず、睡眠不足と孤独感に追い詰められたころ、
「何の楽しい思いもさせてやれずこんなに苦しい思いをさせるくらいなら、あの時いっそ心肺停止のまま蘇生などせず死なせてやった方がよかったんじゃないのか。」
と思ってしまった時期がありました。
そんな迷いの中療育園に出会い、めいにはたくさんの友達ができ、良い先生に恵まれ、養護学校に入学し、また友達が増え、良い先生にも恵まれ、そして私にもたくさんの大切な友達が、味方ができました。
少しずつ少しずつ、娘の毎日はカラフルになっていき、どんどん笑顔が増えていき、生活に小さな小さな幸せが感じられるようになるにつれ、いつしか助からなければよかったという思いは消えていきました。
生きてきてよかったと、今は心から言えます。
これからもきっと嬉しいことばかりではないだろうし、また泣くこともあると思います。
だけど、そうやって、泣いたり笑ったり悩んだりしながらこれからも娘と一緒に生きていこうと思います。
めい、大きくなったね。生きてきたね。
あなたの人生がこれからも笑顔と幸せに溢れていますように。
卒業おめでとう!
いただいたサポートは娘の今に、未来に、同じように病気や障害を抱えて生きる子達の為に、大切に使わせていただきます。 そして娘の専属運転手の私の眠気覚ましのコンビニコーヒーを、稀にカフェラテにさせてください…