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父の愛に気づいた日

物心ついた頃から、私は父が嫌いだった。タバコ臭いし、平気で大きなオナラをするし、何よりいつも汚れた作業服を着ている父が恥ずかしかった。

ビシッとスーツ姿で出勤する友達のお父さんが羨ましくて、あんなお父さんが欲しいと思ったし、時には、父の子に生まれたくなかったと思ったことさえある。

そんな私だったけれど、怖い映画を見て夜眠れない日は、居間がある一階に降りていくと決まって父がテレビを見ていた。

「眠れない…」と父に話すと、父は「そんな怖い映画見るからやろ」とよく注意された。でも、父がいてくれたことで恐怖も和らぎ、眠ることができた。

私が夜、熱を出して苦しそうにしていた時、夜勤でいない母の代わりにお粥を作ってくれたし、寒い日だったのでストーブも炊いてくれた。

「これで寒くないやろ。ゆっくり休み」と優しい言葉をかけてくれたね。

休日のお昼、仕事でいない母の代わりにたまごが入ったインスタントラーメンをよく作ってくれたし、たまに焼肉屋さんにも連れて行ってくれた。

父は元々子供が好きだったらしく、私は父に冷たくしていたのに、父は私をとても可愛がってくれた。

社会人になって、父のことをようやく受け入れることができたし、父が私を愛してくれたことにやっと気づいた。

仕事で辛い時、「もう、仕事辞めたい。実家に帰りたい」と泣き言を言ったら、父は「そんな簡単に仕事を放り出したら、どこ行っても続かん。辞める時は、お前が結婚する時や!」とカツを入れてくれたね。

そんな父に励まされて、なんとか結婚するまで仕事続けることができたよ。

初めての出産に「恵は体が丈夫じゃないから、お産大丈夫やろか?」と心配していたことを後になって母から聞かされた。

初孫のアスカが生まれた時、父の涙を初めてみた。妹のマリが生まれた時も、母と一緒に3時間かけて来てくれた父。

実家に帰った時は、アスカとマリに大きなスヌーピーのぬいぐるみを買ってくれたり、これでもかというほど大量の花火を買ってきて、母に怒られていた父。

実家に帰るたび、近所の公園に孫たちを連れて行くのが、父の楽しみだった。
アスカとマリも、陽気なおじいちゃんが大好きだったよ。

そんな父が体調不良を訴え、町医者で検査してもらったところ、「うちでは手に負えない」と言われ、大学病院に紹介状を書いてもらった。

大学病院で検査を受けた父は「アスベストによる悪性中皮腫」と診断され、余命宣告を受けた。

電話で母からその話を聞かされ、私は頭が真っ白になった。信じられない。病気一つしたことがない父。いつも陽気だった父が…。私は大声で泣いた。電話越しに母も泣いていた。

しかし、父は「父さん、元気になるから」と辛い放射線治療も耐えた。長期入院生活だったけれど、体調が良い日は一時退院で家にも帰っていた。

父は元気になった時のために、次の仕事を探しに駅に置いてある求人誌をよく見に行っていたらしい。私の携帯電話に父から電話がかかってくることもあった。「子供たち元気か?」と。

父のことが大好きだった娘たちは、「おじいちゃん、大丈夫なん?早く元気になってね」と手紙を書いて、父のお見舞いに持って行った。

父の療養生活はそれから3年。長期の抗がん剤治療も効かず、最後は痛みを抑える疼痛緩和治療。強いモルヒネで、突然起き出し「家に帰るぞ」と母を困らせていた。

数日後、病院から電話がかかってきた。「お父さんが危篤状態だから、ご家族皆さん、会いにきてください。」と。

私は取り乱していたが、主人は落ち着いていた。荷物をまとめ車に乗り込み、父が入院している病院まで3時間かかって到着した。

病室に入ると、父は虫の息で苦しそうだった。両目が開かないように、薬を塗られている。

「お父さん、きたよ。子供たちもいるよ。頑張って!」私は父のまだ暖かい手を握りしめた。数分病室で父の様子を見ていたが、耐えきれず廊下で待つことにした。

子供たちがまだ小さいので、私たちは、一旦、実家に帰って待つことに…。私はなかなか眠れずにいた。うとうとした頃、実家の電話がチリーンとなった。電話に出ると、それは母からだった。

「お父さん、今、息を引き取ったよ。」母は泣いていた。私も一緒に泣いた。こんなに早く、まだ58歳の若さで逝ってしまった父。もっと父に優しくしてあげたらよかった。


お父さん、あの世で何してる?大好きだった志村けんさんと会えたかな?
「だいじょーぶだー。変なおじさん!」が口癖やったね。私は、相変わらずなんとか1人で頑張ってるよ。

今度、アスカが結婚することになった。お父さん、どうか天国から私たちを見守っていてね!

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