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大切なものを愛することが出来るように。~『対岸の家事』を読んで~夏の読書感想文~

まだ娘が0歳だった頃、
わたしは、家出をした。

今でも覚えている。
その日の空は、今にも雨が降り出しそうな空だった。
保育園からの帰り道、0歳の娘を抱っこしながら、わたしは歩き続けていた。

保育園のお迎えに行くまではいつも通りだった。
いや、何なら家の前までいつも通り帰ってきていた。

それなのに、
家の前まで帰ってきていたのに、
帰れなかった。

今にも雨が降りだしそうな空の下で、ただ、ひたすらに歩いていた。
気がつくと、隣駅まで歩いていた。

きっかけは、抱っこ紐の中で娘が寝たというささいなことだった。

当時の日記を見てみた。

家に着く直前で娘が寝たということは、
家に帰ると起こさないといけない。
というか、抱っこで寝たので、
抱っこ紐からおろすと起きるだろう。

そして、気持ちよく寝ていたところを起こされ、泣くだろう。
娘はまだ7ヶ月だった。
眠たいし、お腹もすいている状態。
一日の中で、一番娘の機嫌が悪い時間帯だ。

そんな中で起こすと、服を脱がす間も、お風呂で身体を洗っている間も、服を着せている間もギャン泣き。
そして、お風呂で目覚めちゃって、授乳後はなかなか寝ない。
いつもなら19時20分頃に寝るところが、このパターンだと21時まで寝ない。

22時30分には再び起こして授乳するタイミングなのに。

「保育園からの帰り道、家の直前で娘が寝た」ことによって、この一連の流れが起きることが、ありありと想像できた。
これまでも何回もあったからだ。

しかも、この時間にやらなきゃいけないことは、育児だけではない。
同時並行で行った方が効率的な家事も山積みだ。

乾燥済みの洗濯物を洗濯機から取り出し、
洗濯機のゴミをとり、
朝起きたままになっている娘のまくらやシーツを交換し、
保育園で着替えてきた、吐き戻しミルクがついている服を洗濯機に入れる前に手洗いし、
汚れたお食事用エプロンや何枚ものガーゼタオルを洗う。

娘が寝るまでに、上記のことを順番通りにする必要があった。
家事の一つ一つの順番には、しっかりとした理由がある。

家事なんかほおっておいて、育児に集中すればいいのは分かっている。究極「娘を寝かす」さえ完了していればいいだけど、「娘を寝かす」には、この順番での家事が必要なのだ。

この家事を、育児と平行しながらやらなきゃいけない。そしてその間、寝起きの娘はギャン泣き。

これが、平日仕事帰りに2~3時間。
ちなみに親である私は、娘が寝るまで、晩ごはんを食べる時間がない。


今なら思う。

もっと家事の手を抜いたっていい、休んだっていいって。

でも当時は必死だった。

あの日、家出は、1時間半だった。
短くて、そしてとてもとても長い時間だった。
そしてこの日から1年ぐらい、保育園からの帰り道に、毎日思っていた。

「今日は大丈夫。ちゃんと家に帰られる」って。

娘に言い聞かせるように。
そして、自分に言い聞かせるように。


◇◆◇


なぜこんな話をしたかと言うと、朱野帰子さんの『対岸の家事』を読んだからだ。この本を読んだ時、ふと、家出の記憶が蘇ったのだ。


本の始まりはこの一文だった。

「一日でいい。誰かにご飯を作ってもらいたかった。」


夢中になった。一気に読んだ。
通勤時間すべてと、娘が寝てからの時間すべて、夢中になって読んだ。
夢中になりすぎて、なんと1日で読み終えてしまった。
それだけでは足りなくて、2回目も読んだ。
じっくりと。1回目に読んだ内容を反芻するように。
そして今、このnoteを書いている。


◇◆◇


この本は『わたし、定時で帰ります。』の著者が描く、もう一つの長時間労働のお話。
だから『わたし、定時で帰ります。』が好きな層にはハマると思うので、是非読んでみて欲しい。家事の話ではなく、労働の話だから。主フ(専業&兼業主婦・専業&兼業主夫)はもちろん、仕事が大好きな人にもハマると思う。

あと、宮部みゆきの『火車』が好きな人にもオススメしたい。まず、終わり方が似ている。私は『火車』の終わり方が大好きなので、この本の終わり方が似ていて嬉しかった。さらに、社会問題に焦点を当てた現実味のある小説、という点も似ている。


◇◆◇


家族の為に「家事をすること」を仕事に選んだ主婦。二児を抱え、自分に熱があっても休めない多忙なワーキングマザー。外資系企業で働く妻の代わりに、二年間の育休をとり、一歳の娘を育てるエリート公務員。医者の夫との間に子どもができす、姑や患者にプレッシャーをかけられる主婦。

こんなラインナップの登場人物が出てくるを見ると「あぁ、家事が大変って話?」って思うかもしれない。が、違う。

『わたし、定時で帰ります。』が「仕事は大変って話」ではないのと同じように。あの話は、仕事という労働の中で、色んな立場の登場人物がそれぞれの想いを抱えながら奮闘している話だ。

それが『対岸の家事』では、仕事という労働ではなく、家事という労働が舞台になっている。そんな感覚。

名もなき家事に、終わりなき家事に、必死で向き合う主フたち。専業主婦だったり、兼業主婦だったり、育休中の主夫だったり。そんな小説。

登場人物たちは、決して器用な人たちではない。それでも必死に、懸命に向き合っている登場人物の全員に共感できたのは、朱野帰子さんの小説だからだろう。


◇◆◇


わたしは、産後3ヶ月で仕事復帰をした。時短も使わなかった。

「産後3ヶ月で仕事復帰したん!?しかも時短使わずに!?大丈夫?すごいね!」

ここ2年ほど、幾度となく言われた言葉。友人に、会社の人に。


今や共働きが主流の世界。専業主婦は世の中に3分の1ほどと言うけれど、30代の私の周りでは感覚として10%もいない。

主婦がマジョリティの時代ではなくなった。共働きが主流となった。大きな風が吹いた。共働きの方が生きやすい時代になったことは否めない。

それでも、子育てと家事と仕事の両立はめちゃめちゃ大変だ。最初に書いたように、もうあかんわと思って家出したこともあったし、心身共に疲れ果てて救急車に運ばれたこともあった。

でも、これだけは言える。


子どもは、
子どもだけは、
ちゃんと愛せている。


「あれ?子どもがかわいくないぞ?」
と思う場面が今までなかった。
幸いにも。

理由は明確だ。
産後3ヶ月で仕事復帰したからだ。
産後3ヶ月で大好きな仕事に復帰したからこそ、子どもも愛せた。

逆にわたしが、もし子どもと24時間ずっと暮らしていたら。育休を延長して、仮に1年3ヶ月、子どもと24時間ずっと暮らしていたら。
そしたらたぶん、子どもを愛せなかった。

子どもを愛するには、まず自分に精神的な余裕がないと出来ない。平日の日中は仕事をする。平日の朝夜と土日は子どもと過ごす。この距離感が、子どもを愛せるちょうど良い距離感だと思っている。わたしにとって、子どもとのちょうど良い距離感。この距離を探ることが、とても大切だ。


そして、ちょうど良い距離感を探るというのは、家族との関係や子育てだけの話じゃない。

家事だってそうなのだ。

いや、家事だけじゃない。

仕事だってそう。
趣味だってそう。

すべては、ちょうどいい距離感が大切なのだ。

仕事との適切な距離を見誤って、自分を見失ってしまう人も多い。
わたしだって、家事との適切な距離を見誤って、自分を見失いそうになったこともある。

『対岸の家事』の主人公たちも、家事との適切な距離を探っていた。一日もレトルトを出さなった詩穂。自分に熱があっても休めない礼子。それぞれが、家事とのちょうどいい距離を、必死に探っていた。わたしは、そこに激しく共感した。


もう一つ、大切なことがある。
このちょうどいい距離というのは、人によって違う。

家族との距離、
恋人との距離、
家事との距離、
仕事との距離、
趣味との距離、
子どもとの距離。

これらとのちょうどいい距離は、人によって違う。
だから、自分のものさしで計った、自分にとってちょうどいいその距離を、人に求めるのは残酷だ。

まさに、これがその例だと思う。

「この子を連れて児童館に行ったとき、育休中の人に訊かれたんです。お仕事は何してるの? って。家事と子育てですけど、と言ったら、それは仕事じゃないって返されました」
 彼女と別れて、少ししてから、何度咀嚼しても飲みこめない、なんとも言えない気持ちが生まれてきました。
(『対岸の家事』p.431)


みんなが適切な距離を探ることが出来て。そしてそれぞれの距離を尊重したら、なんか素敵な世界になるんじゃないかな。

『対岸の家事』を読んで、そう思った。


大変な家事を、
大好きな仕事を、
そして、大切な家族を、
ちゃんと愛せるように、
愛することが出来るように。

そのために、それらとのちょうど良い距離を探りながら、生きていく。
この本の登場人物と同じように、わたしは必死で生きていく。

そして、自分にとってちょうど良いその距離を大切にし、
他人のその距離も尊重できるように。

そう思いながら、今日もわたしは生きています。

(3,573字)


同じ本の、読書感想文B面はこちら。


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