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校長先生の話

校長先生の話といえば、どんなイメージだろうか? そもそも、ちゃんと聞いていたという人は少ないのではないかと思う。

私自身、校長先生の話はいつも聞き流していた。先生が話している間、いつも別のことを考えてぼーっとしていたし、話のなかで先生が何回「えー」と言うかを数えて暇を潰すこともあった。

そんな私でも、唯一覚えている話がある。小学校1年生のときの校長先生の話だ。なぜそんな昔の話を覚えているかというと、その先生は月に一度以上、必ずといっていいほど同じ話を何度も私たち児童に聞かせていたからである。

それは、ある昔話だった。

むかしむかし、水がいまよりずっと貴重だった頃。水を汲んで蓄えておくのに必要な甕を、うっかり割ってしまった人がいました。代わりの甕は持ち合わせていなかったので、困り果てたこの人は、隣人から壺を借りることにしました。その壺は古びていましたが、この人は感謝の気持ちを込め、壺を丁寧に洗って隣人に返しました。

私が覚えているのは、たったこれだけのストーリーである。校長先生は昔話の終わりにいつも「借りた壺は洗って返すんですよ」と言葉を結んでいた。

大人になったある日、私はふと校長先生の話を思い出して、同様の昔話はないかネットで調べてみた。もしかしたら中国の古典が出典かもしれない、そう思いながら、検索語を変えて何度も調べたが、全く手がかりがつかめなかった。

恐らく、校長先生が考えた喩え話だったのかもしれない。

先生はことあるごとに、「借りた壺は洗って返せと言いますが……」と件の昔話を持ち出して語るような人だった。だから当時は「耳タコ」の状態で、深い意味まで考えていなかった。あの頃同じ小学校に通っていたほかのみんなも、先生たちも、きっと「ああ、いつもの壺の話ね」と苦笑いしながら、校長先生の作った昔話のあらすじだけはしっかり頭に入っていたはずだ。

あの頃の私は、なんとなく、礼儀作法だとか感謝の気持ちの持ち方だとか、そういった話なのだろうとぼんやりとしたイメージを持ちながら、「きっと大切な話なんだろうな」と感じてはいた。卒業式の日も離任式の日も、校長先生はやっぱり同じ昔話を私たちに説いていた。最後の最後まで、私たちに大切なことを伝えようとしてくれた唯一の先生だった。

大人になった今なら、校長先生が私たちに一番伝えたかったことが何か、はっきりとわかる。7歳の頃、私がなんとなくわかった気になっていた大切なことが。

それはとてもシンプルなことだ。人からの恩は誠意で返すこと、物は借りたときよりも綺麗にして返すのが礼儀だということ、そういった「人として当たり前のこと」を今からきちんとしなさい、きちんとできる大人になってください――。

校長先生の話というと、冗長でつまらないというイメージを持ちがちだが、私はこの校長先生から、幼心に大切なことを刷り込まれていたのだなと思う。

この校長先生は非常に生真面目な先生で、学校だよりのタイトルは堅苦しく「いま、学校では」と明朝体で書かれていた(私はなぜかそんなことまで覚えている)。しかし、いつもニコニコしていて優しかったし、学校の花壇整備には誰よりも積極的に取り組んでいた。私のなかで「校長先生」といえば、この先生が真っ先に思い浮かぶ。

だがそれも、もう20年近く前のことになる。当時白髪混じりだった校長先生は、今ではきっと80前後の御老人になってしまったことだろう。どうか元気でいてほしいなと思うし、やはりこの校長先生には感謝の気持ちが尽きないのだ。

ただ、悲しいことに、私が通っていたこの小学校は、6年前の3月を最後に閉校となった。全国的にも珍しい円形校舎ではあったが、維持費や耐震性の問題やらの関係で取り壊され、新たに防災拠点施設が作られた。

もともと過疎地にある小学校で、私が小学1年生の時点で全校生徒は54人、卒業する頃には40人を下回っていた。学年の人数は10人いれば多いほうで(私の学年は6人だった)、当然クラス分けなど存在しない。私が4年生の頃には、2学年で1つの教室を使って勉強をする「複式学級」という仕組みが生まれたほどだ。いつかは閉校になるだろうなと覚悟していたが、校舎まで消えてしまうとは思わなかった。

私も含め、あの過疎地から出ていった人はたくさんいると思う。小学校もなくなってしまったが、あのとき同じ時間を共有していた元児童の多くが、あの校長先生から大切なことを教わっていて、何度も聞かされたあの昔話だけは覚えていると思う。忘れっぽい私が、これだけしっかり覚えているのだから。

※写真は小学校の公式サイトより。ヘッダーの写真は体育館です。

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