見出し画像

心地の良い空間でコーヒーを

 私の部屋を、父が改造しています。正確には、元私の部屋なのですが。

32年前、私がまだ小学1年生だった頃に、生まれてから幼少期までを過ごした小樽から今の実家へと、家族4人で引っ越しをしました。引っ越し先が決まるまで、何軒もの家々を見学して回ったことは、点と点ではあるけれど鮮明に覚えていて。札幌の中古一軒家を見た時は、トイレがピンク色だったことが本当に衝撃的で「こんな色、絶対にいやだ!」と、当時女の子っぽい物や色を毛嫌いしていた私は発狂していました。他にも、黄金色でひょうたん型をした浴槽を備えたお風呂がある家なども印象に残っています。風変わりな家ばかりを候補に挙げていたのでしょうか、だとしたら完全に母の好みだと思いますが、今となっては聞いてみることも出来ず。
 お母さん、どうしてますか?2年半経ったけれど、変わらずに悲しい気持ちでいるよ。会いたいな。

   引っ越し当日の朝、普段通り納豆ご飯に、高野豆腐と人参としいたけの煮物で朝ごはん。偏食だった私はいつも同じ献立ばかり好んで食べていました。きっと両親は悩みの種だったと思いますが、他のものが出されると意地でも手をつけなかった記憶があります。迷惑かけていたなぁ。
 現在1歳半の次男の子育て真っ最中のため、母の気持ちや努力が今更になってとても身に染みています。長男が幼かった時は、私は若く母も元気で、まだ感謝出来ていなかったこと、反省しています。
 この朝食の後、母と私は大きなけんかをしました。お着替えです。冒頭でも少し触れたように、5歳上の兄の影響か、男の子っぽいものが大好きだった私は、逆に女の子っぽい物が大の苦手でした。幼稚園のお遊戯会練習でも盛大に駄々をこねて、先生から自宅の黒電話に相談電話がかかってくるほどみんなを困らせた、”女の子はスカート”事件。ここでも私は絶対に譲らず、結局他の男の子に混ざってズボンの衣装でお遊戯会当日を迎えました。
 そんな一件があったのにも関わらず、
 「今日は晴れの日だから、これを着て行こうね。」
と、全面に色鮮やかなひまわりがプリントされたワンピースを持って現れたのです。はい分かりました、と頷くわけがありません。
 「え、嫌だ!絶対嫌だ!!」
いつものように全力で拒否したものの、この日の母は折れてくれません。
 「それなら、あなたはこの団地に一人でいなさい!連れて行かない!」 
 そこから私は泣き叫び、床を転がりながら手足をばたつかせて抗議しましたが、最終的には母の圧に押され、しぶしぶワンピースに袖を通しました。
 「あら、可愛い!やっぱり似合うでしょ、ね!」
と、母が父に必死に同意を求めていたこと、今でも忘れられません。

 ひと悶着あったけれど、無事に新居に到着しました。兄と私は、自分の部屋を決めるために2階へ駆けあがりました。出窓のある大きな部屋と、ベランダのある小さな部屋、そして和室。2人で3つの部屋を隈なく見て回り、兄がベランダのある部屋、私は出窓のある部屋に決めました。本当は、兄も大きな部屋が良かったのではないかと思いましたが、きっと私に譲ってくれたんだろうな。わがままを許してくれる、いつも優しい兄。

 その部屋はすぐに私の落ち着ける場所になりましたが、特に出窓はお気に入りになりました。日当たりが良く、少しだけ足を伸ばして座るのにちょうどよいその場所に、いつも腰を掛けて本を読んだり勉強をしたり、外を通り行く人をそっと眺めたり。一人で過ごしたり、友達がたくさん来てくれたり、親友とケーキを食べたり。笑いが止まらないほど楽しかった日も、涙の時も、小学1年生から高校卒業までの約11年間、その部屋はいつも私を見守ってくれました。

 私が再婚をして道外へ嫁ぎ、母が亡くなり、一人になってしまった父は、最近になって大掛かりな日曜大工を始めました。元々手先が器用なうえに、木工家具を作ったり外壁塗装なども自分でこなしてしまう父です。実家と嫁ぎ先を繋ぐ電話口から聞こえる父の声から想像する、今回はどんな事をしているのかな?というドキドキわくわくするような感覚。母が亡くなって2年半。何かしてみようと父が思えるようになったんだと、電話で話をしながら止まらない涙に、温かさを感じました。
 「出窓丸ごと取っ払って、ガラス扉にしたんだよ。ここから見える景色がなかなかいいんだよなぁ、夜なんかは星もきれいに見えるし。2人分のコーヒー淹れて、星見ながら、写真のお母さんに話かけてんの。」
 普段本当に無口な父が、意気揚々と嬉しそうに話す声色が、何よりも幸せを与えてくれる瞬間でした。
 「いいなぁ、子どもの頃私が使ってた部屋でしょ?またそこに住んでみたい。」

拙い文章しか書けませんが、読んで下さったあなたに気に入っていただけたら、とても嬉しいです。