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スイジガイが守ってくれますように。

壁にかけたスイジガイが、パソコン仕事をする私を見守っている。
スイジガイは、漁師にとってのお守りだ。

奇妙な形のこの貝をもらったのはたった数日前のことなのに、懐かしさがどっと押し寄せ、伊江島での出来事につい思いを馳せてしまう。

1.再会

港に着くと、両腕・両足を組み壁にもたれかかり、遠くからこちらを睨みつけるようにして幸一さんが待っていた。

「なにか、ニヤニヤして」
「いや…また会えて嬉しい」

「お久しぶりです」も「ご無沙汰してます」も無しに並んで歩き出す姿は、はたから見れば親子のようだったかもしれない。実際には私と幸一さんが会うのはこれで2度目だ。


幸一さんは、沖縄北部の離島は伊江島に暮らす、漁師で塩職人で元観光課長のおじいである。初めて会ったのは4年ほど前、私が友人らと3人でツリーハウスを作る計画で伊江島を訪れた時のことだった。

私の友人J君は、兼ねてからツリーハウスを作りたいと言っていた。とはいえ、「沖縄にツリーハウス作りに行くぞ。木はもう決めてきた」そう言われたときはさすがに驚いた。ツリーハウスを作りたいという願望は、ヨーロッパに住みたい、ピザ窯を作りたい…etc.のような、なんとなく誰もが憧れる夢であり、かつその多くは実行に移されるものでは無い類の夢だと思っていたからだ。

J君曰く、伊江島に移住したJ君の友人Cさんが島の観光課に勤めており、Cさんの元を訪ねたところ、当時観光課長だった古堅幸一(ふるげん こういち)さんという方に自宅の木をツリーハウスにして良いと許可をもらったとのことだった。


2.古堅幸一

幸一さんは見た目が怖い。らしい。
アラ70のおじいとは思えないガタイで、怒鳴るように喋る。真っ黒に日焼けした全身に、彫りが深いのでさらに暗い目元に鋭い眼光が光っている。

らしい、というのは、私は顔が怖いとは思っておらず、むしろ言動の厳しさに畏れを感じるからだ。

私は幸一さんに対して終始かしこまって敬語を使うわけでは無いのだが、呼ばれれば「はいっ」と即答してしまうし、言いつけは守る。

私は普段、大人になってから知り合った相手に対して敬語を使わなくなるまでにかなり時間がかかるタイプだ。だが幸一さんに対しては数日でタメ口混じりになった。形式的な尊敬の表現は不要なくらい、絶対的な主従関係のようなものを感じているからかも知れない。
島にいる限りは幸一さんがルールだと私の中に微かに残る野生の勘が訴えてくるのだ。

厳しい言いつけは私たちの安全を守るためだったり、島の人に迷惑をかけないようにするための配慮だったりすることが徐々に分かった。心優しくシャイな幸一さんは、怖い表情や怒ったような口調で優しさを隠しているつもりなのだろう。

脱線かつ真逆の方向の話をして読者さんを混乱させてしまうと申し訳ないが、以前トラックの助手席に乗った際、シートベルトを締めるとすかさず「締めるな!!」と叫ばれた。おそらくこれは目的地に到着し「降りれ!!」と言われたタイミングで即降りられるようにで、幸一さんのエゴなのだが、先述したように島では幸一さんがルールなので、従うほかなかった。とはいえ法律は守りたいところで、以降はなるべくさりげなく締めるようにした。


ちなみに幸一さんは男性に厳しく女性に甘い傾向がある。

伊江島滞在中、まだ6時を過ぎないような早朝に「起きれ!!!」と雷のように鳴り響く幸一さんの声で男性陣は飛び起きていく。
ツリーハウスを作るための重機や材料を幸一さんが用意してくれているので、それらを使って作業を進めたり、島の人からの頼まれごとに応えたりするのだ。作業は連日夕方まで続く。

それぞれ重機メーカー・住宅メーカーに勤める友人が午前作業に向かう

たまに寝坊したり、すでにドドドド…と重機の音がしている場合には時すでに遅しで、幸一さんは機嫌が悪く、彼らに嫌味を言ったり叱責したりする。

一方私が身支度を整えてから外へ行くと、「3人で朝飯を買ってこい」などと言い、朝食の時間にしてくれる。

ツリーハウスのデザイン要員として伊江島に渡った私は、幸一さんから”絵描き”として認知され、塩工場の看板を任され絵付けをすることになった。暑さに弱く、力仕事でも役に立たない私には、日中部屋で休んでいても特になにも言ってこない。にも関わらず、3人ともに大きなお弁当を差し入れてくれたりした。

「お任せで」と言われたので、1番の広告塔である幸一さんの顔を描いた


3.伝説だらけの男

若い頃は、漁師として訪れる海外のあちこちの港のそれぞれに女性を作っていた。昔の漁師はみんなそうだった。と、幸一さんはニヤニヤ語る。

一度その女性たちに宛てた手紙の宛名が1つずつ全てずれてしまい、揉め事になった結果、女性のうちの1人からハサミでお尻をつき刺されたという。(お尻の傷は見ていないが、別件で刺されたというお腹の刺し傷は見せてもらった。一生のうちで複数回人から刺される一般人はどのくらいいるのだろうか?)

幸一さんの伝説は他にも数えきれないほどあり、度々話して聞かせてくれるのだが、ここでは2つだけ紹介したい。

幸一さん伝説①
漁師だった若き日の幸一さんはペルーの沖合で船から転落し、3日間海に浮いて過ごしたという。発見された時には皮膚が全身火傷のような状態になり、救急搬送された。
無意識下の幸一さんの手が、手当をするグラマラスな看護師さんの胸元に伸びて驚いたと、のちに看護師さんから聞かされた…という話が、この話のオチとして毎回セットで出てくる。

幸一さん伝説②
これは多分幸一さんにとっては覚えてもいないような些細なことだが、私の目の前で起こり、度肝を抜かれた出来事である。
私が伊江島から帰宅する日の前夜、幸一さんはサプライズでお別れパーティを準備してくれており、獲ってきた巨大なシャコ貝や他の魚でスープを作っていた。
夕方からグラグラと煮ていたその鍋は小さな子どもでもわかりそうなくらい熱そうで、到底触れないものである。それをなんとテーブルまでの10mほどの距離を素手で持ち運んだのである。その場にいたパーティの参加者は全員目を見張った。

この人の体は他の人とは違う作りだ…と感じると同時に、信じられない事象を目の当たりにしたことで、それまでに耳にした数々の伝説の信憑性が一気に高まったのだった。

ちなみに数年前にも、重機と家の間に挟まって体を浮かせたまま発見までの2時間を過ごすという大事故で幸一さんは肋骨と内臓を負傷するも、奇跡的に生き延びている。


4.再会-続-

さて、そんな幸一さんに「グラスボートに絵を描きに来てほしい」と頼まれた私は、今度は1人で伊江島に足を運んだ。1度目に訪れた2019年から4年ぶりとなる、2023年4月末のことだ。
滞在中はVIP待遇、那覇空港まで迎えに行く。と言ってもらっていた。

私は前回の伊江島滞在中に撮った写真をときたま見返していたし、そもそも幸一さんの顔は一度見たら忘れないような顔なので全く心配していなかったが、幸一さんが私の顔を覚えているかは心配だった。

先日著書を出版した私は、幸一さんから「本が出たら買うから送れ」とも言われていたので、本を送る際に自分の顔写真を同封しようか迷ったが、今どき現像してある写真なんてものは手元にほとんどなく、結婚式のときの写真くらいだった。

人生で1番盛れている写真を送った場合、却って発見してもらえない可能性が高まると思い、同封はしないことにした。

そんな心配をよそに、再会は簡単だった。幸一さんは私の顔を覚えていたようで、再開の感動もほどほどに「前より痩せて、もっと可愛くなった」と言ってきた。

そういえば、初めて会った際「お前はキロ8000円」と言われ、突然のことで意味が分からず「?」となったことを思い出した。その場で友人のJ君・H君に尋ねると、幸一さんによる人の値付けが行われていたところで、彼ら男性陣は「売値なしの雑魚のエサ」だったという。

伊江島に移住し、観光課に務めるCさんから聞いた話、キロ単価8000円はCさんが聞いてきた中で最高額だったらしい。幸一さんは私のことを気に入ってくれたようだった。が、"だいごろ"というあだ名でJ君から呼ばれていた私の名前を覚えきれず、"ドザエモン"と不謹慎な名前で呼んだりもした。


5.ie SHIMA glass bottom ship

30人乗れる船に引けを取らない存在感の幸一さん

「想像の5倍はある…」
立派な船を目の当たりにして行天した。

幸一さんによれば、これは彼にとっても同じようで、”5、6名乗りのボートを探していた” のに ”30名乗りのグラスボートを譲ってもらう"ことになったのだそうだ。

事前の電話で幸一さんは、船の写真や希望のイラストイメージを送ってくれると言っていたのだが、待てど暮らせどそういった資料は送られて来なかった。

というのも、幸一さんはスーパーアナログ人間で、私が送っていた「資料写真を送ってほしい」「那覇空港についた」などのメールは読めていなかったことが会ってから発覚した。私へ資料写真付きのメールを送るのは、人に頼もうと思っているうちに忘れてしまったそうだ。

そんなワケで船の絵付けはぶっつけ本番となってしまった。想像よりもはるかに大きな船が現れたうえ、天候が悪く作業できない日が思ったより多く、更には手伝ってくれる予定だった方も来れなくなってしまったので正直焦った。だが、その一方で、制約のある中でどれだけのものを仕上げられるか、ワクワクもしていた。


6.伊江島の人々

船の絵付け作業に興味がある方は、別の記事にまとめているので、ぜひこちらから確認してほしい。結果のみ言えば、船は概ね満足いく仕上がりとなった。

ここには、島の人との関わりや島での暮らしを綴りたいと思う。

天候に恵まれた4日間は日中のほとんどの時間を港で過ごしたが、お昼の休憩は長めにとって午後に備えた。

6時半:起床
7時〜11時半:午前の作業
15時〜18時:午後の作業
22時:就寝

なお、滞在中の寝泊まりは通常民泊の受け入れをしている幸一さんのお家にお世話になった。

暑いところで働く農家さんや漁師さんは大体こんな感じで働くらしい。3食きちっと食べ、朝から外で体を動かし、早くに寝る。普段の私の仕事とは全く違い、それでいてとても体に合っていた。

私は頭痛持ちかつ暑さや眩しさに弱い体質で、連日ロキソニンを飲んでいたため、出張先にも12錠ほど持って行き、「足りなくなったら買おう」とまで思っていた。にも関わらず、なんと1錠しか飲まないうちに伊江島出張は幕を閉じた。

食事や洗濯など生活面の面倒は奥さんの由美子さんが見てくれた。由美子さんにお会いするのは今回が初めてで、本人にも伝えたが、一体どういう人なんだろう?幸一さんと結婚するくらいだから、きっと幸一さんと同じかそれ以上にとんでもない人なんだろう。と失礼ながら思っていた。

ところがいざ会ってみると驚いたことに由美子さんは至って普通の人だった。おばあとは言い難い綺麗なお顔立ちで、幸一さんが次々に繰り出すとんでも発言に「ありえない」とか「バカじゃないの」などと言う。そう、普通の感覚なのだ(笑)

口数少なめ、クールな感じで、「おはようございます」や「戻りました」などの私の挨拶には返答がない場合が多いので、最初私の滞在を快く思っていないのかとも思ったりしたが、そんなことは全くなかった。

むしろ毎日美味しい手料理を振る舞ってくれ、最終日には空港近くまで送りがてら、1日かけて沖縄観光をさせてくれた。

夕飯を頂くたび、あと何回この夕飯を食べられるだろうと、少し寂しい気持ちになっていたのはここだけの話。沖縄滞在中の体調が安定していたのは由美子さんのおかげだ。

ダツのお刺身にテビチー、豆腐ハンバーグにもずくのお味噌汁。豪華すぎる!

ずっと港で船にへばりついていると、毎日何人かの人が声をかけてくれた。その多くは幸一さんのご友人であったが、中には幸一さんも初めて喋ったという人もいた。

私に「うまいねえ」と声をかけてくれた、ハットにポロシャツの穏やかそうなご老人は、ずっと漁師として島から出ていて、最近島に戻って来られたそうだ。

お互いに漁師だったと知るや否や、幸一さんはそのご老人と意気投合して若かりし頃の話で盛り上がっていた。幸一さんが女性関係の話をしだしたので「漁師のみんながみんな女性をたくさん作るわけじゃないでしょう」と私が突っ込むと、「いや、作ったね」と幸一さんがご老人に振り、ご老人も笑ってそれに頷いた。

後から聞くと、幸一さんはそのご老人を何度か見かけたことはあったが話したことは無かったと言う。旧友を見つけたような幸一さんが嬉しそうで、私はそのきっかけを作れたことが嬉しかった。


7.差し入れ

学生時代、ずっと運動部に所属していた私は、差し入れと聞くだけでなんだか嬉しい。伊江島滞在中には、そうでなくても誰もが嬉しくなるような差し入れをたくさん頂いた。

ダイビングインストラクターの豪ニさんより とれたてのブダイ
お刺身にしてもらいニンニク醤油でいただいた
前回滞在時も頂き、またいつか食べたいと思っていたお弁当
暑くても傷みづらい揚げ物多め
大人気又吉かまぼこの材料 ダツ。透き通ったガラスのような目、オーロラのような体
こちらはお刺身で酢醤油と、素揚げでいただいた

他にも飲み物やアイス、菓子パンなどたくさんのありがたい差し入れを頂いた。これらは私と幸一さんが1日中絵付けをしていることに対する労いの気持ちだとは思う。でもそれ以上に、島の人付き合いのようなものが大きいのではないかとも思った。

島ではなのか、幸一さんの周りではなのかは判然としないが、伊江島滞在中は金銭以外の対価を渡したり受け取ったりするシーンをよく目にする。

幸一さんはかつて船の旗艦長を務めていたため、機械の整備ができる。今は塩職人なので塩を作ることもできる。だから、〇〇をしたお礼に××をもらったのようなことがよくある。

伊江島のコンビニはファミリーマートが2店舗あるだけだが、幸一さんは朝か晩かで訪れるコンビニを変えているという。これは両方のコンビニを平等にたてるためだ。

私がいただいた差し入れも、日頃の幸一さんの行いへのお礼なのではないかと思う。

幸一さんは、伊江島内外に世話をした人・世話になった人が多数いて、その一人一人をとても大切にしている。私が幸一さんを大切にしたいと思うのは、幸一さんが私を大切にする人だと知っているからかもしれない。


8.スイジガイと塩

寝泊まりさせてもらっていた幸一さんの家には、隠れミッキーのようにあちこちにシーサーがいた。

「沖縄ではシーサーが守り神なんだよね?幸一さんのお家にもいっぱいあるね」と私が言うと幸一さんは「そう。でもシーサーは王宮の真似事で、漁師のお守りは貝」と教えてくれた。

そして、「お前にもあとでひとつやる」と言い、車を運転しながら「ほれ、あそこの家にも飾ってある」と奇妙な形の貝を指差した。

滞在中、島ニンニクや裏庭でもうすぐ熟れる島バナナ、花の色が変わるという木の苗など、色々なものをあとでやる、あとでお前のうちへ送ると言ってもらった。これらについては送ってくれる日を楽しみに待つばかりだが、貝だけは帰宅のために荷物をまとていたところに持ってきてくれた。

それは見覚えのある貝だった。
同じものかはわからないが、4年前に訪ねた時にも、幸一さんの自宅のガレージの壁にかけてあったのを写真に収めていた。

「大切なものなんじゃないの?」と聞くと、
「また探せばいい」とのことだった。

由美子さんからは塩と塩麹をもらった。私の母が料理好きだと話していたためか、それぞれ2包みずつ持たせてくれた。

前回は幸一さんから、その辺のバケツに入った塩をこれまたその辺のペットボトルに詰めて持って帰れと言われ大量にもらって帰ったことを思い出す。由美子さんにそのことを話すと「それ天日干し前のじゃないの?きったない」と顔を顰めるので笑った。

その大量の塩ですら大切に少しずつ使っても使い切ってしまったので、今回もらった塩は開封できるかわからない。

幸一さんがくれたスイジガイは、私のお守りであり宝物だ。

「ちゃんと朝飯を食え」「ゆっくりでもいいから2キロくらいは毎日歩け」
そんな声が聞こえてくる気がする。
イラストレーターになり、運動不足、外界とのコミュニケーション不足の私が人の心配をしている場合ではないが、幸一さんにも、由美子さんにも、ずっと元気でいてほしい。

また会いに行ける日その日まで、スイジガイがみんなを守ってくれますように。

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