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主治医から教わった癌の考え方

#創作大賞2023
#エッセイ部門

 植えられたばかりの田んぼの苗を、太陽が力強く温めてくれる初夏。
鳥が囀ずり、花が咲き、生命の芽吹きが地上を楽園にしていく。
一年の中で最も「希望」という言葉が似合う季節に、私は地獄へ落ちていきました。
それは、入浴中に起きた出来事です。
一日の疲れをとる湯の中で、私は肩こりをほぐしつつ、たまたま右の乳房へ手が触れました。
「ん、なんだ?」
違和感を感じもう一度触れました。
「なんだろう、これ」
不安が全身をよぎり、恐ろしくてたまりませんでした。
頭の中を乳癌という言葉が駆け巡り、慌てて左胸を触りました。
「ない…」
湖面のように静かだった湯は、波を立て、私は決して受け入れたくない現実に、どうしたらいいのか慌て、それでももう一回ちゃんと身体をふいてから確認しようと部屋へ走っていきました。
緊張で手が震えました。
深呼吸をし、ゆっくり触りました。
「しこりだ、、」
大きなため息が身体を包み、絶望でしばらく裸のままで座っていました。
「どうしたらいい」
「私は癌なのか」
堂々巡りする不安の中、出勤途中で見た乳癌検診のバスを思いだし直ぐに市役所へ電話しました。夜の八時では出るはずもないのに、いてもたってもいられませんでした。
翌朝手続きをし、一刻も早く検診に行かなくては、と仕事どころではありませんでした。
バス検診に行くと、明らかにしこりがあるから、病院へ行った方がいいと言われましたが、まだ仮に癌だとして現実を受け入れれる心の準備ができてなく結果を待つ事にしました。しかし、予想通り検査結果には紹介状が同封され病院へ向かう事となったのです。
その日から、乳癌であるかどうかの検査が正式に始まり、生きた心地がしませんでした。
三つの病院でマンモグラフィーをし、組織学的検査がなされるまで、実に四ヶ月が経過していました。
その最終検査時の医師の発言は、今でも忘れません。
医師は検査しながら
「少し痛いよ~。この検査する人は八割が悪性だから」
と。
私は、あまりに軽い感じで告げられ、テレビや映画でみてきたような癌告知の悲しみがわく暇もなかったです。検査が終わり帰宅すると、どうゆうわけか自分の身の回りの物を整理し始めました。私がいなくなっても、家族が分かりやすくする為です。
「癌=死」という自覚が、自然にとらせた行動なのだと思います。
心はどこか冷静で、母親としてやるべき事はやっておこうと思ったのです。
それから検査結果が出る三週間後は瞬く間にやってきました。結果はステージ2の乳癌と判明しました。
「やっぱりか」
という気持ちです。
ところが主治医の話は次がありました。
他に転移がないかを、造影剤使った検査日程を決めるというものでした。「転移」などという考えは微塵もなく、むしろ本当に怖かったです。結果は幸いにも転移はなく、癌でありながらも、ほっとしました。
検査結果が全て出そろい、治療スケジュールを決める迄に五ヶ月が経過していました。
やはり早期発見、早期治療という事は、検査にも時間がかかり、その間にも癌は成長し続けているという事もあるのかもしれないと、改めて感じました。
医師から告げられた癌の内容を、家族に話し、親に話し、会社関係者に話しました。
どの人も驚き、非常に哀れみましたが、私自身は、逆に心配しないでくださいと、気を使って笑顔を向けたの覚えています。
頑張っていく気持ちが、既にできあがっていたんだと思います。そうはいっても、乳癌治療で最初にぶち当った苦痛は、なんといっても脱毛でした。
覚悟はしていても、抗がん剤治療が二回目を過ぎたあたり、シャンプーの際に用意していた洗面器は、抜け毛で真っ黒になっていきました。みるみるうちに、丸坊主になっていくのです。どのタイミングで準備していたウィッグをかぶるかも悩みました。他人から見える極端な変化が嫌だったのです。何度も鏡の前でかぶり方の練習をしては、落ち込みました。しかし雪が降りだす頃になると、まわりの人達もウィッグに慣れ、帽子のようで温かくてありがったです。
頭髪などを気にしていた頃は幸せな方でした。抗がん剤は回数を重ねる毎に、副反応の激しさを増しました。
口内炎が十個も出て、痛さで食べる事ができません。それなのに体重は浮腫で八キロも増え、仕事上のスーツやヒールは買い換えました。八回の治療が半分が過ぎるころになると、「後、三回」と、自分自身を鼓舞しました。自分の身体なのに、自分の身体ではなく、精神と治療している身体に一体感がありませんでした。
私の体に、ある日突然癌という怪物が住み着き、私の体を食い潰して、生きていこうとしている現実を理解し、生きた者同士が生死をかけた戦いをしている真っ只中にいて、その戦いに決して負けるわけにはいけないという思いで治療していました。
全てを委ねた主治医の話に従い、主治医が必ず守ってくれると信じ治療に向き合っていきました。

私の主治医はいつも笑顔で診察に向かい合ってくださいました。
血液検査をみながらの説明が終ると、三週間の期間の副反応や様子を聞き、抗がん剤治療の別室に向かわせます。
僅か十分程度の診察時間で、私の疑問の解決策を必ず出し、動画で見た話や、会社関係者に言われた話迄、ちょっとした不安材料は必ず消し去り
「そんな話は気にしないで普通に暮らして」
と、何度も言いました。
最初は癌なのに「普通に?」と難しく感じていましたが、段々に心に浸透してきて、いつの間にか「癌は死ぬ」という間違った概念が私にはあり「癌は治す」ものだと変わっていきました。
そんなある日、主治医はいつも通り血液検査を見ながら
「人はいつか必ず死んでいくんだけど、最後迄、自分の足で歩いていたいなら、まずは三十分歩かなきゃダメだよ。」
と真冬の二月に話してきました。又、ある時は、
「吹雪の時は、電車にするなりしなきゃ帰りに事故にあって救急車で運ばれてきたら、私が叱られるよ」
と談笑してきたりしました。
癌には無関係な話も多く、私の中でいつの間にか、癌は特別な病気ではないような気持ちになっていきました。
スケジュールどおりに治療を、成し遂げていくだけなんだと感じるようになっていました。

八回の抗癌剤治療が終わり、手術が終わったら放射線治療に移る予定でしたが、手術で取り出した癌に、0,03ミリ生きたまま癌細胞が見つかり、更に十四回抗癌剤治療がプラスになりました。当初予定していた治療スケジュールが変わり、月日は癌を自分で発見した日から、二年以上に及びました。
今は、薬を一日一回服用しながらの五年経過観察が始まっています。
主治医は初めて出逢った日から、何一つ変わりませんでした。
癌が見つかって私は死ぬんだなと不安いっぱいで診察室に入っていった日も、治療が苦しく辛すぎると入っていった日も、手術が無事に終わった日も、全ての治療スケジュールが終わった日も、いつも笑顔で迎え入れ、いつも気を付けて帰ってね~と笑顔で送り出してくれました。

「人はいつか必ず死んでくけど、最後迄自分の足で歩いていたいなら、まずは普段から三十分歩かなきゃだめだよ」
この言葉は癌の話など一言も降れていないのですが、主治医から教わった癌の考え方だと思っています。
主治医に感謝すると同時に、沢山の縁あった方々に、ありがとうの気持ちを込めて終わりたいと思います。
















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