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悲しみと向き合うということ

悲しみと向き合うとはどういうことなのか。泣くこと?原因を深く探るようノートに書き綴ること?瞑想?誰かとその事柄について話してみるということ?客観性など排除して、ただ心が赴くままに動くこと?表現に昇華させること?

いろいろ試した気がする。悲しみの直下にいる当時は、それなりにいろいろ試した気がするけれど、確かに「大丈夫」と繰り返し思っていた。私はあのときに苦しみ切らなかったから、こうして今、永遠に緩やかに続く坂道を選んでしまったのだと思う。

猫のことが恋しくて泣く日はなくなったけど、それでも私は十分に悲しい。この事実をどう受け止めればいいのだろう。目の前にある問題が解決したと思っても、やはり原因はそればかりではないみたいだ。どうしても悲しいのである。悲しむという癖が、抜けなくなってしまった。これは、怠慢だろうか。こういう人間に、なってしまったのだろうか。ここが温かいからだろうか。夜、眠ろうとするとあらゆる考えが思い浮かび、それを払い除けると呼吸が荒くなって涙が自然と出てくる。体は重く眠ってしまいたいのに、どうしても上手くいかない。最初は睡眠リズムが乱れてしまったと、ただそう思っていただけだったのに。一日が三日になり、一週間が一ヶ月、半年近く、もう一年と、延びていく。苦しみの根源も分からないまま、私はどうしたらいいのだろう。そう、前までは、写真がメディテーションツールだった気がする。写真を撮るという目的で散歩に出ること、撮った写真を眺めること、何かを作るということ。でももう、写真では追いつけなくなってしまった。悲しみの速度が、あまりに早く、写真ではもうだめなのかもしれないと思った。いつの間にそんなに深まってしまったのだろう。私では私を救えなかったか。

生き方から変えたほうがいいと言われたとき、この人は私のことを本当に理解していると思った。「十年はかかるかもしれない。それでもやっていくなら、変わるしかないよ」と。十年。途方もない気がする。この苦しみを晴らすには、そんなに長い時間がかかるのか。苦しくても、この道をじわじわと進んでいくのか。私はやっていけるだろうか。悲しみと向き合うとは、それとともに生きていくということなのだろうか。

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