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気難しい私の日常

いくらでも自分で好きなように自分を見せることができるSNSで、印象をコントロールすることに空虚さを感じています。

私はおしゃれな写真を撮るのが好きで、詩的なキャプションをつけることも好きです。インスタグラムに適しているように感じます。フィルムカメラで写真をとって、抽象的でノスタルジックな印象に仕上げると評価されやすいことが分かっているし、事実 昔はそういう写真が好きでした。そして、それでよかったのですが、エモいという言葉が流行しだしてからこわくなってしまいました。エモいで片付けられることがこわくなりました。今まで実体が掴みきれなくて大切だったものが、カテゴライズできるようになってしまったのです。そこにあったはずの厚みや深い広がりが、薄っぺらくなったように感じました。もしくは、本当は薄かったことに気づいてしまったとも思いました。自分の写真が、意味のあるものだと思えなくなりました。本当に、こわくなったのです。

SNSで見せたいように自分を見せるということは、見せたい自分を選択することだと思いました。たくさんあるカテゴリーの中から選択するのです。そして、自分をカテゴライズすること・できてしまうこと が、泣きそうなくらいこわくなりました。好きなはずのSNSが、見せたい自分像を選択して最適な投稿をして、と、なんだか空虚に思えてしまって、それからだめになってしまいました。

極端に、表面的なことが嫌いなのです。このことに限らず、いつもそのことで苦労していて、「もっと楽に考えればいい」と言い聞かせるのですが、上手くいきません。例えば社交辞令や、髪を黒く染めてスーツを着込む形式的な面接。そう、形式的なものが嫌で嫌でしょうがないのです。小学3年生の頃から先生に屁理屈をいい続けていた感覚が、ずっと続いているような気持ちです。"大人になる"とよく言いますが、形式的なものに疑問を抱かなくなることが私にとってのそれなのかもしれない、と思うようになりました。そんな日が来るかな。今は、本当に嫌で嫌でしょうがないのです。

一見無関係に思えるSNSの話も、形式的だと思ってしまったことに繋がります。書き出してみると更にほんとうに下らないことだと思えるのですが。

こういう話をよく母親にします。友達はよく私のことを気難しいと言うし、ホストマザーと合わないと父親に相談すると「あんたは誰とも合わん」と言われたこともありました。

そういえば人生で二人、あまりにも感覚が似た人に出会ったことがあって、そのうちの一人の女の子は最近彼女ができて、「自分とはいい意味で全然違う。本人はチャーミングだと言ってる。」と言っていました。恋愛関係なく私が好きになる人はだいたい陽気で、やっぱりそういうことなんだろうなと思います。私にもそういうチャーミングな人が現れて、その雰囲気に引っ張られて明るくなることが理想です。うちの母親はまったくチャーミングな人で、父親と私は似ているので、うまくできているなと思います。


明日(今日)は朝11時からバイトなのですが、最近は睡眠サイクルが狂っていて朝7時くらいに眠って夕方16時に目を覚ましていて、今朝4時なので不安です。お昼に出勤するのは初めて。バイト先の飲食店は"Covid-19"の影響でテイクアウトを始め、店の前に立って「いかがですかー」と売り子をするのが最近の業務です。これが業務ならこのバイトは絶対にやっていなかったですが、今は何か一つでも普段通りなことがあるほうがおかしいくらいなので、しょうがない…と心のなかで唱えています。そして本当はTake awayなのに…と思いながら「テイクアウトやってます」の看板を持っています。つくづく面倒くさい女ですが…。

チャーミングな友人たちとは疎遠になっていて、連絡をとっている友人はみんな私と似たタイプで、チャーミングな母親もいないし、家にいるのが大好きなタイプの私でも一人暮らしのおうち時間生活はかなりしんどいです。

それでは、朝11時まで寝てしまいませんように。気難しい自分にも陽気な明日を。


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