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文章は思い出のアルバムをつくるように

という、素敵なタイトルだけがネタ帳に残っていた。タイトルから逆算してなにか書いてみよう。

たまに、自分の過去の記事を見返すと「俺の記事っておもしれ〜〜〜〜」と感動することがある。


天才かな?
ちゃんとインタビューしたり、自分で身体張ったり、自分自身が主役ではない企画だったり。天才かな?

過去の記事を読んでいると、当時の情景が頭に浮かび、そのときの感情がよみがえってくる。まさにこの記事のタイトルのとおりで、自分の思い出のアルバムを見ているような感覚になれるのだ。

ウェブに自分の文章を公開するとなると、ついつい「おもしろいと思われたい」とか「SNSでバズりたい」とか邪なことを考えがちである。僕もそうなりがちなのだけれど、最近はわりと書きたい文章を書けるようになってきた。
Twitterを見なくなったのはけっこう大きいと思う。やっぱりウェブだとどうしても数字が気になっちゃうからね。

もしSNSがなくなって数値が一切見えない世界になったら、ウェブで文章を書くことの意味ってだいぶ変わってくるんだろうね。誰かに言うまでもない個々人の趣味と同じようになるだろうな。ゲームしたり、プラモデル作ったり、家でギター弾いたり、カラオケで歌ったり、散歩したり、友達と野球したり……

でも、数値が可視化されていることで、文章を書くことへのハードルを勝手に自分で作って、そのハードルの前でうなだれている人が多いよね。自分自身を含めて世の中みんなマゾなのかもしれない。

いや、でも数値があってもなくても過去の自分の文章見るのはやっぱり楽しいんだよね。「ああ、このときの自分の考えって馬鹿みたいだな!黒歴史だわ!」って思えたらもう勝ちじゃない?めっちゃ楽しいよ?それを見ながら家でビールでも飲めばもう優勝。それでいいんじゃないのかな。なんか自分でもそう思えてきた。

▲3年前に書いたnote

▲今やっているサークル

3年前に「契約結婚がしたい」とか書いていた男が、今は「30歳からマッチングアプリを始めた話を聞いてくれ」なんてサークルやっているくらいだからね。人格入れ替わった?

でも、人間の考えってそんなもんだよね。絶対にAだと思っていたのに、誰かに話しを聞いてコロッとBに変わることってあるじゃん。人間なんてすぐ変わるよ。

そんな気持ちをさ、自分の文章としてとどめてアルバムのように飾っていくのって素敵やん。大勢に見られなくても、誰にも刺さらなくもいいじゃん。数年後の自分に刺さったらそれはもう自分の財産だ。



さて、どうだろうか。タイトルにそった文章が書けただろうか。タイトルから逆算して文章書くのって難しいな。

この文章の中に書いてあることも数年したら間違いなく黒歴史になるんだろうな。「世の中、数字だぜ!!!!」とか世紀末みたいなこと言っている自分がいる未来もありえなくない。

数年後にこのnoteを読むことが今から楽しみである。


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