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アスパラガスが怖い

 子供の頃、アスパラガスが嫌いだった。嫌いと言ってもその頃の私はいわゆるバカ舌で、野菜は全て同じ味のような気がしていたから、食べたことはなかったけれど味を苦手に感じることはなかっただろう。見た目に不快感を持っていたのでもなく、嫌いになる要素は一つもなかったように思う。しかし嫌いだった。嫌いというよりもむしろ恐怖の対象だった。
 なぜかというと、アスパラガスは男性のヒゲが成長してできたものだと思っていたからだった。

 朝起きて、リビングへ向かう廊下の途中に洗面所があり、そこで父がヒゲを剃っている。右手に電気シェーバーを持ち、決して間違いがあってはならないように左手で何度も顎を撫でながら、繰り返しシェーバーを当てている。
 それを横目に通り過ぎ、リビングのドアを開けるとテレビで朝のニュース番組が流れている。出演しているアナウンサーや芸能人はみなヒゲを剃っていて、口の周りは嘘みたいに真っ白だった。アナウンサーがときどき笑って口元にシワができるが、黒い点々としたものは見られない。私はニュース番組を見ているというよりも、間違い探しをしているように男性陣の口元を凝視している。どれだけ目を凝らしても、やっぱりヒゲのようなものは少しも見当たらなかった。

 ある日、母とスーパーへ行った。その日の献立は忘れてしまったけれど、まず初めに野菜コーナーを回った。そこで、黄色い箱に整理して敷き詰められたアスパラガスの束を見つけた。スーパーには時々母と通っているから、今までそれを目に入れたこともあったかもしれないけれど、私には初めて見るように感じられた。目の前にあるアスパラガスの、穂先の先っちょから目に見えない何かの粒子が飛び出して、私の頭の中に入り込み、脳みそがゆっくりと熱を帯びてくる気がした。背中がむずがゆくなった。

 そして、それを理解した。

 男性のヒゲは成長するとアスパラガスになる。だから男性はヒゲを剃る。ヒゲの1本1本はとても細いけれど、処理せずに放ったらかしにしていると互いに互いを巻き込んで螺旋状に伸びていく。一定の長さになると伸びるスピードは速くなり、硬さを増してどんどんと成長する。最初のうちは真っ黒な色をしているけれど、色素が薄くなって緑色に変化する。そしてヒゲを伸ばし始めて1ヶ月もすれば、目の前にあるような立派なアスパラガスになって収穫される。アスパラガスの穂先が段々になっているのは、それが元はヒゲだったということの名残なんだろう。

 たぶん健康的な肉体を持って、体調に全く不安のないような男性がアスパラ栽培人として登用されるのだろう。細くてヒョロっこい人から生えてくるアスパラガスは痩せてて色が薄く、歳をとったおじいさんから生えてくるアスパラガスは育ちが悪くて普通の半分くらいしか育たない。
 アスパラ栽培人になりたい人なんていないから、うってつけだと判断された人は突然アスパラ農家に連行される。最初のうちは抵抗し、もがき倒そうとしているけれど、いつの間にか観念して大人しくなってしまう。
 東京ドームくらいある大きさのビニールハウスの中に、前後左右1mくらいの間隔を空けて、全国から集められた選りすぐりの栽培人たちが椅子に座らされている。真っ白な服を着せられて真っ白な椅子に座らされている。手足は椅子に縛りつけられているから逃げ出したくても逃げ出せない。成長促進のために彼らはみな南を向かされているけれど、彼らの目に光はない。虚な表情をして顔の筋肉は垂れ下がり、遠目から見たら蝋人形のような無機質な雰囲気を醸し出している。1ヶ月に1回農家のおじさんがやって来て、アゴから生えたアスパラガスを刈り取って出荷していく。

 子供の妄想は果て知らずで、どんどんと恐怖が嵩んでいった。けれど怖いもの見たさ、怖いもの食べたさとでもいうのか、ちょっとアスパラガスを食べてみたいという欲求もあった。でも私はそう主張することはしなかったし、私の家庭でアスパラガスの料理が出ることはなかったので食べる機会は訪れず、大人になるにつれて分別がついてくると、いつの間にかその恐怖は消えていった。
 大人になった今では何も気にすることなくアスパラガスを食べることができる。いや、少し躊躇する。口に含んで歯を当てて、噛み切るまでの刹那に、アスパラ栽培人の男たちの虚な表情が脳裏に浮かんでくるような気がして、やっぱり今でも苦手かもしれない。

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