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特別支援学校からの発信「自分で自分の背中を掻く快感と自由のために」

以前に別のブログでも書いたのですが、盲学校の全盲の先輩教員と話したことを紹介します。

自分で自分の背中をかく快感

その先輩は、自分で自分のことをする自由や快感を「自分で自分の背中をかく快感」と子どもたちに説明しています。

当たり前の話なのですが、自分の背中のかゆい部分の場所や、そこをかくちょうど良い力加減が正確にわかるのは自分だけです。

他人に任せると場所がずれたり、力加減が強すぎたり弱すぎたり、なんだかしっくりこないものでしょう。

そしてその先輩は続けます、「この自分で背中をかく快感が、いろんな物事を自分で自由に選択し、自分のペースで行える心地よさにつながっていくのだ」と。

自分の力だけでできるなら、いつでもどこでも気兼ねなく「自由に」できる。支援してくれる気遣いも、わざわざ「ありがとう」という必要もない。時間や場所も選ぶ必要がない。

でも、他人に任せるとそうはいきません。

ヘルパーさんは決まった時間にならないと来ないし、人によってクオリティも、こちらの意図を汲んでくれるかどうかの度合いも異なります。何より自分のペースで進めることができません。「なんでそんなことまでしないといけないんだ」と断られるかもしれない心配とか、「そこまでしてもらわなくてもいいんだけどなぁ」「本当は自分だけでやりたいんだけど」なんていう思いに蓋をする必要もありません。

もちろん、自分でできることと、それを自分で選べる自由は誰でもが手に入られる訳ではないかもしれません。

特に障がいのある子の場合、様々な困難があります。もちろんスキルを手に入れて自由に使いこなすには時間がかかります。自分の手でなくて、孫の手を使う方法もあります。でも、それまでできていなかったことにチャレンジして、自分で自由にできるためには時間もかかるし大変です。

でも、いや、だからこそ獲得できた快感や自由が次の頑張りのモチベーションになるのではないでしょうか。

苦手なことにでもなんにでもチャレンジしろということではありません。その快感と自由を知った上でどうするのかを自分で選ぶようになったらいいのになと思うのです。

自分のことを自分で選んですることはとても大事なこと

僕もその先輩も、基本的には子どもたちが自分のことを自分でできるよう関わろうとしているつもりです。それは「自分のことを自分で選んですることはとても大事なことだ」と思っているからです。

僕たちは、学校は勉学だけでなく、そのような考え方や具体的なスキルや便利や道具を活用する方法を学ぶ場所でもあると思っています。

でも、「長い間周りの人に身の回りのお世話をされて育ってきた子どもたちは、自分で背中をかくことより、他人に背中をかいてもらうことの方が快感になってしまう。自分で頑張ることの負担が大きくなり、やってもらうのが当たり前になってしまう」そう先輩は想いを吐き出しました。

「見えない・見えにくい子だから、●●ができないから助けてあげる」のではなく、「見えない・見えにくい子だから、どうやれば●●ができるのか」を伝えることは、盲学校教員として大事にしてきたことです。

もちろん、「身の回りのことをお願いしてまで頼る必要はない。本人のやりたいことや健常の子と同じように勉強を優先させるべきだ。もっと社会の制度が充実して、できないことをサポートするべきだ」という意見もあるでしょう。

どこまでその子ができるのかという見極めはとても難しいし、その子の能力やこちらとの関係性以上にやらせることは、その子を追い込み多大な負荷をかけすぎることにつながるかもしれません。

その子によって目指すべきゴールは異なります。

僕らの考え方は古いのかもしれません。

現実の社会では、頑張ってスキルを覚えるより、福祉制度や他人を頼れる便利な世の中になってきています。あと30年もしたら、AIの力で、自分の身の回りのことを自分ですること自体がナンセンスな世の中になってしまうのかもしれません。

でも、僕らはそれが人間の尊厳につながる自由だと思うのです。

もちろん、するしないを選ぶのは本人です。しかし、盲学校で働く(働いていた)僕らは本人の意思決定に関わる非常に重要な立場にいるのです。僕らの関わりが、「自分で自分の背中をかく快感」と「他人に背中をかいてもらうことの方が快感になり、やってもらうのが当たり前になる」との分かれ目になるかもしれないという思いと危機感と責任感が交錯します。

背中を押してくれた2つの記事

そんなことを考えていたときに、noteの2つの記事に出会いました。

1つは理学療法士の方の記事です。印象に残った部分を引用させていただきます。

先輩「だけど『理学療法士』としたときにそれは致命的な弱点にもなるんだ。優しい君は困っている人を見るとつい助けてしまう。それこそ息をするように。だから患者さんはこの人なら何でもしてくれる。と思ってしまう。」
先輩「そんな便利な人、おうちにはいないと思うよ。家族ならば特に。身内だとお互いに遠慮がないからね。だからできる限り私たちは患者さんの自立を助けていかないといけないと思うんだ」
先輩「患者さんを助けたければ介護士になればいい。介護士も立派な仕事だよ。人を助けるプロ集団だからね。本当にすごいと思う。」
私「私たち理学療法士も同じようなものではないんですか?」
先輩「人を助けるという意味では同じかもしれないが、我々の仕事は患者さん自身に自立した生活をできるようになってもらい、退院して社会に復帰してもらわないといけない。」
先輩「しかも病院は退院すればいいというもんじゃない。我々はよくても患者さんからしたらそこからが本番だよね。病院で生活できても家で生活できるとは限らない」

学校も卒業後に出て行く社会の関係も似ているのかもしれないと思いました。支援教育は理学療法士と介護のどちらの側面もあるんだなとも感じました。

もう1つの記事は、視覚障がい当事者の方が日常の生活を発信されている記事です。

一連の漫画、スキー場の体験をされる場面を描く中で、リフトに乗ったり、スキー板を本人が運ぶようにしたりする支援者の在り方を通して、『本当のサポート』について考えさせられます。

こんな記事やツイートを読むと、自分や先輩の想いや関わり方が間違っていないんだよと背中を押していただける気がして、力をもらっています(勝手に思っているだけかもしれませんが笑)。

まとめ

サポートあるいは支援、援助と当事者の意思、想い、選択、自立などのさじ加減の難しさについても先輩とよく話します。

でも、その難しいさじ加減を探りながら進めていくのは、その子に「自分で自分の背中をかく快感」を知って欲しい。自分の人生を自分で選んで生きてほしいと思うからなのだと思います。

何だかまとまりがなくて恐縮ですが、自分なりの支援学校教員としてのスタンスについてのお話でした。



表紙の画像は、イラストボックスより引用しました。