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「教育勅語」制定前の状況について

以下の2つの資料を元に教育勅語成立前の状況をまとめる。

・『教育勅語と御真影 近代天皇制と教育』 小野雅章著 講談社現代新書 2023

・『「徳育論争」の再検討−教育勅語発布直前の道徳教育をめぐる議論の検証から− 高瀬幸恵 2018


教育勅語成立の背景

教育勅語は、1890年10月30日に明治天皇が内閣総理大臣と文部大臣に勅語を授け、翌日『官報』に掲載するという地味な形で世に出ることになる。この時に勅語を受け取った、山形有朋首相と芳川顕正文相はそれぞれに制定過程を振り返った記録があり、それによると、この年の2月に開かれた地方長官会議がきっかけだったという。この会議は内務大臣が各府県の知事を招集したものであり、当時内相を兼務していた山県と内務次官をしていた芳川も携わっている。

この会議では、現行の教育が知育に偏り、徳育を蔑ろにしているという批判から「徳育涵養の義付建議」が審議された。この建議をもって府県知事一同が文部省に押しかけたことで世間の耳目を集めることになる。

ではどうして、府県知事たちは現行の教育に批判的であったのか。それを理解するために、当時の徳育政策を振り返ることにする。

学制発布後の新旧の教育政策(以下、『教育勅語と御真影』より)

明治5年に学制が発布された後の教育政策は、近代化推進の開明派と、幕藩体制下における儒教をもとにした教育への回帰を試みる宮中保守派との新旧の相克が生じていた。宮中保守派の代表は元田永孚である。元田は熊本藩士の家に生まれ、藩政改革派の横井小楠の思想に強い影響を受けた漢学者である。維新後は、大久保利通の推挙で天皇の侍講を務め、側近として明治天皇から厚い信頼を寄せられていたと伝えられている。朱子学が思想の基盤である元田は、開明派官僚の森有礼と終始対立する。

元田による「教学聖旨」と、井上毅による「教育議」

 1879年8月に明治天皇の名義によって「教学聖旨」が内務卿伊藤博文に示される。「教学聖旨」は前年の「巡幸(天皇が各地を巡ること)」における見聞にもとづき、天皇の教育に対する意見を侍講元田が書き留めた形式となっている。その内容は、維新直後からの欧米化政策により教育が「智識才芸」に偏していることを批判し、今後は「孔子を主」とする儒教主義にもとづく道徳教育を中心に置き、身分制的教育の復活を求めるものであった。

 この「教学聖旨」を宮中保守派官僚の政治介入と捉え、伊藤博文はその反駁書の起草を井上毅に委嘱し、同年9月に「教育議」として天皇に上奏した。伊藤はこの「教育議」で、現在の欧化政策を堅持するべきであり、儒教主義復活は「反改革」、すなわち維新の成果を無にすると主張した。確かに、当時は道徳や社会ルールの混乱、あるいは自由民権運動による過剰な「言論の敗れ」などの「風俗弊ふうぞくのへい」が認められるとしても、それは開国と近代化の産物であり、教育がその原因ではないとした。

 伊藤の反駁に業を煮やした元田はその後、「教育議附議」を天皇に上奏して反論したが、その内容は「教学聖旨」の趣旨を繰り返すものでしかなかった。それぞれの文章を受け取った天皇が終始中立的な態度を取っていたのは興味深い事実である。「教学聖旨」だけを特に支持していた形跡は見られない。

「明治一四年の政変」以後の「幼学綱要」による儒教主義的教育政策

 「明治一四年の政変」によって大隈重信が内閣の中枢から排除されると、教育政策にも調整が図られることになる。そこには自由民権運動への対策として、教育政策で宮中保守派官僚に一部譲歩することで、政府内部での孤立を避けようとする伊藤の思惑があったとされる。

 まず普通教育に限定して、儒教主義教育の復活が認められた。これを受けて文部省が内示した「小学校修身書編纂方大意」には「修身は授業主義に拠る」と明記されている。さらに、元田は1882年に、天皇の指示により修身科教師用書である「幼学綱要」を自らが編纂し、それを宮内庁から府県知事へ「下賜」した。

 「幼学綱要(全七冊)」の内容は、儒学的観点から元田が配列した二十の徳目について経書によってその意義を説明し、和漢の歴史事例を引用しつつ、絵画によって解説を加えたもので、まさしく儒教的な道徳教材集であった。「幼学綱要」の刊行は、天皇による公教育への介入を進めた事例としては重要であるが、その影響力はさほど大きなものでなく、その「下賜」も、編纂2年後の1884年には2万5千に達したが、その後の森有礼による教育政策が本格化する中で、編纂6年後の1888年には57に減少し、その後の発行は事実上停止された。

森有礼による「閣議案」

 こうして、政変以後に普通教育に限ってではあるが復活した儒教主義も、初代文部大臣森有礼の教育政策により全面的に否定された。森は文部大臣就任後に、自身の教育意見書である「閣議案」を閣議に提出した。

「閣議案」の内容は、これからの国家による教育は「国民の志気」の培養発達が第一の目的であり、そのためには欧米各国のように階級・階層や性の違いを超え、国民が愛国精神を持って固く団結する必要がある。日本の場合は、万世一系の天皇を中心とした「国体」と、人々の「護国の精神」と「忠武恭順の風」とを最大限に活用することが何より重要であるとした。

森は、日本を国民国家とするための「愛国心」を養成する必要があり、その拠りどころとして、新たに国家指導者となった天皇への忠誠心、すなわち「忠君」を利用しようとした。そのために国民と君主の接近(君臣接近)を学校という場で推進しようと考え、官立学校への天皇の定期的な「行幸」も計画していた。

森にしろ元田にしろ、国家形成に際して万世一系の天皇を拠りどころにするという方法論においては共通する面があったが、本質的には両者は対立することになる。

森有礼による普通教育政策という儒教主義否定

 1886年に森文章は第一次小学校令を発布し、立憲君主制への移行を見据えた上での普通教育の方針を示した。これにもとづき、「小学校の学科及其程度」が発せられた。修身科は従前どおり筆頭教科とされたが、その内容は「内外古今人士の言行に就き児童に適切にしてかつ理会し易き簡易なる事柄を談話」とされた。森は「今の世に孔孟を教うるは迂闊なり」と公言し、儒教主義の教育を全否定した。かくしてそれまで使用されていた儒教主義による修身教科書の使用が禁止されるとともに、週当たりの授業時間数も6時間から1.5時間へと4分の1に削減された。

森有礼による教育政策への現場の戸惑い(以下、『「徳育論争」の再検討より)

 森は1887年には、地方長官に対して修身科の教科書を採定しないように通達した。先述の通り、修身科の内容についても、児童が理解しやすい事柄を「談話」で指導する授業へと修正しようとしたのである。こうした軌道修正を背景にして、当時の教育ジャーナリズム誌上では、修身科の教授方法に関する論説が急増した。

その内容としては、「修身科における口授」についてが多く、「口授と教科書とのどちらが効果的か」や「効果的な口授の方法や内容」についてである。「談話せよ」という文部省の指示に対して、現場の教師たちの間には修身科の授業を具体的にどう進めるべきかという戸惑いが広がっていたことが推察される。

余談ではあるが、この辺りの議論は、現代に通じるものがあると感じる。GIGAスクール構想によって配備された「一人一台端末」について、「ノートを使うのが良いか、タブレット端末を使うのが良いか」や「効果的なタブレット端末の使用法は何か」ということが、学校現場では喫緊の課題となっている。教育政策の急転換によって現場が混乱するのは、明治から変わっていない。

他にも「修身科の試験」の存廃などの議論も市場では盛んに行われていた。このような森の施策への対応に追われた現場の教師の不安や不満が高まり始めていたことが読み取れる。