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苦役になって歪む活動


第一章は学習指導のミニマムについて考えていきます。

 これは、そのはじめの文章なので、学習指導における一番大切な考え方をここで提示しておきたいと思います。

「余白で学びは駆動する」

 人は「やれ」と言われて始めたことを、続けることはほとんどありません。そうやって始めたことは、学習にしろスポーツにしろ「やれ」と言う人がいなくなった途端に「やらなく」なるものです。

未来へ続かない部活動

 部活動のスポーツが良い例ですね。日本は世界でも屈指の「部活動が盛んな国」だと思うのですが、その多くの人たちは「大学生や社会人になっても」続けることはありません。現役のときは、あれほどサッカーのことを考えていた人も、高校を卒業して次のステージへ行くと、その多くはサッカーのことを考えなくなります。もちろん、仕事やバイトやサークルなど別の課題に夢中になることはあるでしょう。それでも、体育会系の部活動人口を考えれば、もっと多くの社会人がスポーツに取り組んでいてもいいのにと思うのですが、そうではない。これは部活動が「やらなければならない」ものであったからですね。

 学校教育で言うと、「連絡帳」と「宿題」が良い例です。

連絡帳について

 連絡帳というのは、その日に配布された手紙の枚数や、その日の宿題や連絡事項などを、教師が黒板に書いたものを子どもたちが写して書くためのノートです。それを子どもは記入して、教師に見せてハンコをもらい、家庭で保護者に見せてハンコをもらい、翌日に持ってくるということを毎日しています。毎日しているのならば、習慣化しそうですが、中学校へ進学するとこの「連絡帳」という文化は無くなるので、子どもたちは連絡帳を書かなくなります。つまり、子どもたちが毎日毎日連絡帳を書いていたのは、「連絡帳の必要性」を感じていたからではなくて、「連絡帳を書け」という圧力があったからやっていただけなのですね。

宿題について

 宿題も同様です。小学校では毎日宿題が出ますし、多くの子どもたちはその課題を真面目に取り組んでいます。宿題の内容は、音読や漢字の書き取り、計算ドリルなど単調な「作業系学習」が多いにもかかわらず、それをしっかりとやってきている子どもがほとんどです。見方によっては、こういう「作業系学習」はその単調さから「苦役」にも見えなくはないですが、まえがきで書いたとおり、日本人の多くは「教育教」の信者です。あるイデオロギーを信じるには「苦しみ」は大切な要素になります。「これだけ苦労したから、今の私がある」と教師も保護者も信じていれば、それを同じように子供にさせることに疑いの目を向けることはできなくなります。

苦役ではいけない

 部活動にしろ、連絡帳にしろ、スポーツにしろ、いずれも「やれ」と言われて始めた活動は、その活動自体の効果や魅力には目が向かなくなり、ただただ「こなす」ことに主眼が置かれる「苦役」に変化してしまいます。苦役であれば、それを「やれ」と言う者さえいなくなれば「する動機」が失われますので、すぐに「しなくなる」わけです。

 しかし、スポーツや連絡帳や宿題は「苦役」なのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。例えば、連絡帳は僕にとっては「スマートフォンのリマインダー」や「ふせん」として大人になった今でも活用しています。僕はとくに人よりも「忘れっぽい」ので、「何かの記憶媒体」に記憶させておかないと、すぐに記憶が忘却の彼方へ飛んでいってしまいます。本来、人間は「忘れる生き物」ですので、必要なことを「書き記しておく」というのは、長い歴史の中で人間が編み出した「書記」という叡智なのです。

忘れやすい筆者

 子供たちも僕と同様に「よく忘れ」ます。なぜなら、子供達の脳内にあるのは「休み時間までの時間を計算する」ことと「放課後に誰と何をして遊ぶか」だけですから。だから、子どもたちにも「書記」としての「連絡帳」という人類の叡智を教えてあげれば、それの必要性に気づけて使いこなしてくれることでしょう。しかし、そうはなりません。子どもたちが「連絡帳」と出会うのは教師に「書け」と言われる場面であって、その場面においては「連絡帳」は「人類の叡智」ではなく「苦役」だからです。

 宿題も同様です。漢字の書き取りの学習効果については、多くの人が納得してくれると思います。その量については個人差があるものの「書かなくても漢字を覚えることができる」という子どもを僕はほとんど知りません(過去に一人だけ、見るだけで覚えられる子がいました)。だから、「漢字を覚えなくちゃいけない」と思っている子どもがいれば、大人としては「たくさん書いて覚えよう」というアドバイスが一般性のあるものかと思います。

 実際、僕の感覚としても漢字は「頭で覚える」というよりも「身体で覚える」方が感覚としては近いです。漢字を書くときに、いちいち漢字の構成要素を思い出すというよりは、「身体が覚えているので書ける」というのではないでしょうか。だから、漢字学習は繰り返し書くのです。

漢字学習でよくある事例

 しかし、この漢字学習も「苦役」になってしまえば、その活動は「本来あるべきもの」から遠く離れていってしまいます。例えば、ある子どもは、漢字の書き取りの宿題をする時間が嫌で嫌で仕方ありませんでした。そこで、思案した結果、「効率の良い方法」を思い付きます。それは、「1文字ずつ書く」のではなく「1画ずつ書く」というものです。

 例えば、「草」という漢字を10回書かないといけないとしましょう。これが漢字を覚えるための活動であるならば「草」を10回書くのですが、その子は先に「くさかんむり」だけを10個書いて、そのあと、「早」をその下に10個書いていたのです。たしかに、これだと、「作業がより効率よく」なります。「草」という漢字を10回書くよりも、「部首に分けて」それぞれ書いたほうがより「頭を使わなくて済む」のです。そこで、彼はもっと「頭を使わない方法」を思い付きました。それは「くさかんむり」でさえ「一画ずつ」書いていくのです。傍目から見たらこれは「めんどくさい方法」に見えます。なにしろ「腕の動線」が複雑ですから。でも、彼にとってはこの方法が「画期的な発明」に思えたのです。だって「まったく頭を使う必要が無い」のです。ただただ「縦とか横」の線を引くだけに、認知負荷はほとんどありません。彼がこの自分で発明した方法を手放すことは難しいです。なぜなら、漢字の書き取りの宿題には「過程」が見えないのです。「書き終わった結果」だけからは「どのように書いたのか」を窺い知ることはできないのです。

 結果、彼は「草」という字を「10個生産」してきましたが、決して「草」という字は覚えられなかったのです。今、僕は「生産」という言葉を使いました。これは、彼の活動が「工場的」だと感じたからです。彼がさらに知恵を絞ったら、友人を数名呼ぶかもしれません。そして、「あなたは縦画担当ね」とか「僕は横画担当だ」とか決めてしまえば、作業はより「頭を使わないもの」になり、かつ「生産性は増し」ます。いえ「頭を使わない」は間違いですね。彼はとても賢く、産業革命期の資本家のように「頭を使った」結果、「漢字を覚えられなくなった」と言えます。この何とも不思議な逆説はすべて「学習活動を苦役」にしてしまった功罪ですね。