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教育委員会の指導主事による指導

 先日国からの参考資料の話をしましたが、正直な話、このような参考資料の存在は知っていても、読んだことが無いという現場の教師は数多くいることでしょう。実際、多くの現場の教師は目の前の業務に忙殺されており、国立教育政策研究所からの参考資料はおろか、学習指導要領でさえ、ゆっくり読むような時間は無いというのが現状です。

 しかし、そんな教師のみなさんも教育委員会の指導主事の話は聞かざるを得ません。文科省の審議官の話を聞くような機会は無くても、指導主事の話は様々な研修の場であります。そして、それらの指導主事が話すことは、もちろん、指導主事よりさらに上位の組織である文部科学省や国立教育政策研究所からの言説なのです。そして、それらの言説は、まるで伝言ゲームのように「変質」していく側面があるのです。つまり、人から人へ伝えられるたびに、その人のフィルターを通るので内容が変わっていきます。それは「わかりやすくするための具体例」などで顕著です。

 例えば、評価の話ですと、「主体的に学習に取り組む態度」をどのように評価するのかという話題があります。国立教育政策研究所の出している参考資料には「授業中の挙手の回数などでは、主体的に学習に取り組む態度は評価しない」などの文言が確かに書かれています。しかし、実際、現場には「意欲を評価するためには挙手の回数を見た方が良い」という考えの教員はいます。というか、そういう教員が未だに数多くいるからこそ、先ほどの参考資料にも「注意書き」として書かれているとも言えそうです。つまり、国立教育政策研究所から始まった「伝言ゲーム」のどこかで「挙手の回数」を「主体的に学習に取り組む態度」の評価として活用したらいいと思っている人がいるということです。これは、逆向きではありません。

つまり、現場の下々の教員のレベルからは出るはずがないのです。なぜなら、学校現場では、そこまで「教員の主体性」が保障されていないからです。これは、現場にいる僕自身が強く感じます。周りと異なる実践をしていれば、すぐに「それは誰から聞いた(読んだ)実践ですか」と問われるのです。教員の創意工夫というのは大切にされておらず、「どこかの偉い人が言っていた」ということの方が重要な「権威主義」的な風潮が現場にはあるのです。だからこそ、伝言ゲームの途中にいる「指導主事」とか「校内の権力者であるベテラン」とかの思いが反映されてしまうのです。