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3.11 僕と浜田真理子さんの曲

今日は東日本大震災から11年だ。

1997年、当時岡山県に住んでいた高校生の自分は、阪神淡路大震災の日、地震で目が覚めた。岡山は地震もさほど多くなく、中国山地と四国に挟まれて台風もある程度勢力が弱まることから災害が比較的少ない土地という自分の認識があった。そんな中で、岡山でも震度3もしくは4だったかと思う。寝ていた家族全員が飛び起きたのを記憶している。学校でも「地震すごかったな〜」みたいな話はしたし、横倒しになった高速道路、焼け落ちた市街地、倒れたビルなどのニュース映像を見たものの、当時は大阪も神戸も行ったことがなく、親族や友人がいたわけでもないので、どこか遠いところの出来事のように思っていた。

その後、島根に数ヶ月住んだあと、再び岡山、そして2006年から神奈川川崎市に住んでいる。結婚して、息子も生まれた。定年退職した両親が横浜に住んでおり、仕事は忙しかったが、新しい日常を過ごしていた。

2011年3月11日。金曜日は当時は現場での仕事がなく、1週間の中でも事務所で比較的のんびりと仕事ができる1日だった。自分の作業フロアにはそんなに人はいなかったが、下のフロアには来客もあり、何人かが作業していたかと思う。

14:46

激しい揺れが事務所の入った建物を襲った。自分のデスクや、事務所の本棚に入っていたものが雪崩のように床に落ちた。本棚の一つが倒れそうになるのを見て、咄嗟に支えに入った記憶がある。今思えば危険な行為だっただろう。揺れが収まったあと、地震ではあるが一体何が起きたのか、呆然としていた。下のフロアに来ていたお客さんの1人が上に上がってきて、「すごかったですね・・・」と声を震わせながら話をしていると、再び大きな揺れ。余震だ。すぐさまお客さんにはテーブルの下に入るように促し、状況を見守る。建物自体が古いので、最悪倒壊するかもな、ということすら考えていた。

その後、余震が繰り返される中、妻と息子や両親の安否を確認しつつ、ニュースの画面に映し出される津波に呆然とした。母方の従兄弟や叔母が福島県いわき市に住んでいたので、気が気ではなかった。どのタイミングで彼らの無事を確認できたかは忘れてしまったが、現在も健在である。いわき市で消防官をしている従兄弟はもちろん、岐阜県で警察官をしている兄、自衛官の親友もその後現地にい入っていった。犠牲者の数は日を追うごとに増えていった。インターネットがあったこともあるが、自分自身も大きな揺れに襲われ、親族がまさに東北で被災し、原発が水蒸気爆発を起こすなど、自分にとっては他人事ではないことだらけの災害だった。

徐々にではあるがインターネット上にも様々な動画がアップされるようになる。なぜだか津波の動画を貪るように見ていた自分がいた。「何が起きてるんだ?」という、恐怖感とともに、これが現実に起きたことなんだ、と自分に言い聞かせるように見てしまった。そんな中で、1つのスライド動画に行き着いた。記憶が正しければ、被災地に家族を探す人や、自衛隊の活動の写真を音楽に乗せてスライドにしたものだったと思う。その動画の曲に使われていたのが、浜田真理子さんの「のこされし者の歌」だった。


この曲がリリースされたのは1998年なので、決して震災を受けて作られた曲ではない。浜田さんがどんな事をきっかけに作った曲なのかは、知るよしもないのだが、ピアノ1本でとつとつと紡がれたその歌の歌詞は、未曾有の震災を経て、大切な人を失ってしまった人の気持ちを歌っているかのようだった。


ゆかないで
私を置いてゆかないで
悲しくて心が張り裂けそうだ
夜空の星も、朝の霧も
みんなみんなあげるから
私を置いてゆかないで


まだ祖父母くらいしか看取っていない自分にとっても、胸に刺さる歌詞とメロディと歌声だった。その後、叔父を見送ることもあった。世界に目を向ければ、今もウクライナをはじめ、戦争・紛争が続いていて、多くの人の命が失われている。そんな時に、この曲が思い出される。そして何より、3月11日、東日本大震災が起きた日には必ずこの曲を聴きたくなる。大切な人を突然失ってしまうことが現実にあった日。決して忘れてはいけない。実際に同じ時代を生きて、テレビやインターネットを通してでもあの光景を見たのであれば。

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