「宇宙世紀」という考え方

このタイトルから、わかる人はわかるだろうが、僕はガンダム好きでもある(オタクと呼ばれるレベルではないが、好き)。何やらガンダムシリーズの一つでもある「Gのレコンギスタ」の劇場版が封切られるということを聞いて、改めて自分の中で「ガンダム」という物を考察してみた。

今から40年前、西暦を飛び越えて「宇宙世紀」という新しい時代を想像したクリエイターがいた。富野由悠季という人物だ。機動戦士ガンダムの生みの親である。いわゆる「ファーストガンダム」がテレビで放送されたのが、1979年、今から40年前、僕が生まれた年でもある。日本はというとバブル経済に入っていく頃だろうか。そんな日本中が浮かれていく時代に、彼が考えた未来の地球は戦乱に包まれていたのである。地球連邦という統一政府に対して、宇宙に移住した人、またはその世代から生まれた「スペースノイド」の中で決起した「ジオン公国」との間でだ。

自分はもちろんオンタイムで見ていたわけではなく、記憶があやふやなので恐らくだが何度目かの再放送で見たのだろう。ガンダムといえば単純な「ロボットアニメ」と捉えられがち(自分もそう見ていた)だが、この「ガンダム」の世界観には、人類が持つ様々な問題を内包している、と勝手に思っている。

例えば、なぜ人類が宇宙に住むようになったのか?これは、人類が増え過ぎて、地球ではその人類を支えられなくなったため。

そして、シリーズを通して、宇宙に進出したことで進化したと見られる「ニュータイプ」と呼ばれる人たちは、空間を飛び越え、生死に捉われず意思の疎通が可能になる・・・つまり「分かり合うことができる」ようになる。歴代の宇宙世紀の主人公たち、アムロ・レイ、カミーユ・ビダン、ジュドー・アーシタ、バナージ・リンクス、ウッソ・エヴィンは、分かり合うことで争うことを止められるのではないか、という可能性を信じていた。しかし、2020年を迎えようとしている今でも、地球上では争いが絶えない。

敵対勢力のエースとして登場したシャア・アズナブルは、劇場版「逆襲のシャア」で、「人の革新」を諦め、巨大な隕石を地球に落として人が住めない環境を作り出そうとしてしまうほど、人類と地球の未来に絶望している。一方で、アムロ・レイは人の可能性を信じ続けている。これは、富野由悠季自身が抱く、人類への思いと両極端だがどちらも重なっているのかもしれない。

そして、ガンダムシリーズで一貫しているのが、主人公、つまり可能性を示すのは常に「若者」、ということ。大人たちの都合で争いに巻き込まれながらも、自分自身ができること・やるべきことを見つけ、大人たちを導いていくのだ。先日、NHKのニュースで富野さんがインタビューに答えていたが、「申し訳ないけど子供達に任せるしかない」といったような趣旨のことを述べていた(間違っていたらすいません)。40年前に地球の環境のことまで考え、それをロボットアニメという形で世に送り出す、というとんでもないことをやってのけていたのだな〜と思う。

富野さんの作品で「伝説巨神イデオン」というものがある。これまたロボットアニメなのだが、この作品のラストはなかなか衝撃的で、正直飲み込みたくないラストであった。もしかしたら、富野さんのなかの未来の最悪のシナリオの一つ、というものなのかもしれない。そこから比べるとまだ、可能性は残されているのではないか、と思わせてくれるのがガンダムだ。

今、地球や人類が置かれている状況を頭の片隅に置きながらガンダムシリーズを見てみると、また違った見え方ができるかもしれない。

ちなみに、僕が好きなキャラクターは、シーブック・アノー(F91)、バナージ・リンクス(UC)である。特に「F91」は、もともとテレビシリーズとして考えられていたらしく、シリーズ化されていたら名作になったのではないかな〜とも思っている。ちなみに、歌手の森口博子さんが歌う主題歌も良い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?