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フス戦争の流れ1409〜1419


1409年〜1411年
神聖ローマ帝国領ボヘミア王国(現在のチェコ)が舞台。
腐敗と堕落に染まったカトリック教会に対し、プラハにあるカレル大学の学長であるヤン・フスが、宗教改革を訴える運動を起こすところから話が始まる。

その運動は民衆や貴族から多くの支持を得て、その支持者団体がフス派と呼ばれるようになって行く。
ヤン・フス自身は平和主義者で、決して暴力による革命などは訴えていなかった。

1412年
フスによる贖宥状(しょくゆうじょう・免罪符とも)の批判演説が行われ、それに触発されたフス派の一部がプラハでデモを起こす。
デモの首謀者の3名の若者が捕らえられ、斬首される。それはフス派運動での最初の死者となった。

1412〜1415年
ボヘミア王は贖宥状の件でヤン・フスをプラハから追放する。
追放されたフスはプラハ郊外のフス派支持者に匿われ生き延びていたが、ローマ皇帝ジギスムントよりコンスタンツ公会議への出席を命じられ、同会議へ参加した。
ヤン・フスはそこで異端審問にかけられ、火刑に処されることになる。

1415〜1418年
ヤン・フスの火刑に不満を持つボヘミア貴族は多く、450名からなるフス派貴族同盟を結成してカトリック勢力を牽制した。
ボヘミア王ヴァーツラフはその勢力を政治利用すべく、プラハからカトリック勢力を追放してフス派の政治家を重用するようになる。
プラハ以外の地方都市でも、フス派がクーデターを起こして市政の政権を取るなどの動きが出はじめ、フス派の黄金期が到来する。

しかしヤン・フスというリーダーを失った各地のフス派は、根本的な思想として「カトリックの腐敗と堕落を糾弾し、清浄な信仰を取り戻す」というものは共通していたのだが、それを実現する方法が「対話」なのか「暴力」なのかで意見が分かれていた。
特に一般信徒と富裕層とでは目指すものが異なり、対立の溝を広げていた。

対話や議論での宗教改革を実現しようとする者は「穏健派」と呼ばれ、貴族や富裕層の多くがこれに賛同していた。
一方の暴力容認派は「急進派」と呼ばれ、市民や貧困層がこれを支持した。もっとも、彼らを扇動する者の存在があってのことである。
急進派は宗教改革のみならず、貴族や教会などの権力を打倒し、社会構造を改革するための行動を起こす事を目的としていたため、その思想は後の戦禍拡大の要因となった。

1419年7月〜9月
ボヘミア王ヴァーツラフは政治が下手くそだった。
かつては神聖ローマ皇帝の座に就いていた彼だが、失政が続いて皇帝の座を廃され、ボヘミア王に降格となったのだ。
その降格王ヴァーツラフが、今度はフス派の手綱を緩め過ぎたせいで、ボヘミア王国の各地でフス派による抗争が相次ぐこととなった。
そこでヴァーツラフは180度方針転換をし、プラハからフス派を追放して、カトリックの政治家を呼び戻して復権させることにした。

これに反発したフス派は民衆に武力蜂起を促し、プラハで暴動を起こす。
その首謀者は急進派の僧侶「ヤン・ジェリフスキー」。
ジェリフスキーに率いられたデモ隊はプラハの新市街の市庁舎を襲撃し、カトリック派の評議員を皆殺しにしてしまう。

この事件により、ボヘミア王国の首都プラハは二つの勢力により二分されることとなる。
すなわち、フス派に占領された新市街と、富裕層やカトリック勢力の圏内にある旧市街およびプラハ城の王党派である。

以降、フス派はプラハの完全制圧のための軍事活動を頻繁に行うようになり、一方の王党派はその鎮圧に手間取っていた。
そうこうしているうちにボヘミア王ヴァーツラフが死亡し、フス派と王党派の戦いの意味は「次期国王の座」をかけたものへと変貌していく。

2023年5月
日本にて、フス戦争の研究家が嘆く。
「メモ」のつもりで箇条書きするつもりだったのに、結局「解説」になってしまう、と。

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