法華経28品、の話

さて、私は昔から、古語辞典を読んだりするのが好きでした。

現代語ではなく古語というのが、とても魅力的だと感じたのです。
きっかけは中学生のときの古文で習った「いろは歌」でした。

日本語の表音文字を全て一度ずつ使い、意味の通る文章ができるということに感動したのです。

以来古語辞典をめくっては、古い言葉の響きを眺めてにやにやするのが趣味となりました。

古語辞典の良いところは、仏像の挿絵が書いてあることです。
当時中学生だった私は、まさに厨二病の真っ只中。
ファンタジー性のある仏像にワクワクしながら、八部衆とか、十二神将などといった「シリーズもの」の名前を調べて楽しんでおりましたのです。

そんな私はそのまま大人になり、やがて法華経28品を読むのも趣味となりましたのでございます。

私は縁あって仏教系の宗教の家に生まれましたので、経文には慣れ親しんでおりました。
古文に触れたことにより、経文に書いてあることの意味を調べる力もつき、経文を「物語」のようにワクワクしながら読んだ、といういきさつになります。

しかしですね、「信仰心として読まない」というのが私のモットーです。

これは、まあ話すと長くなるのですが、宗教思想に染まり過ぎると、人は平気で醜いおこないをするようになる、というのをたくさん見てきたからです。

宗教至上主義になって、他の宗教の人を見下したり、常識ではありえない行動をしたりという人がとても多くて。

それを愚痴るとキリがないのでやめますが、そういったことも、実は私の前世探究の手がかりになっていたんです。

前世と今世はリンクしている部分がある、と私は感じておりまして、今世の私は自身の家庭が入信している宗教に対して、疑問を抱いてるんですね。

経典を読むほどに、そこに書いてあることと真逆のことをしてるじゃん、みたいに感じるんです。

なので、前世でも同じようなことを思っていたんじゃないかなー、ということで、「既存の宗教に異を唱え、改革運動を起こした」という出来事を軸にして調べた結果、「ヤン・フスとフス戦争」に巡り合ったといういきさつになります。

ヤン・フスも、既存のキリスト教が堕落し、聖書に書いてあることと真逆のことをしているのを激しく糾弾したのです。

フス戦争について研究を重ねていくと、戦争の根本には宗教思想があるのを強く感じます。
しかも、人々を幸せにしようという崇高な使命感が、かえって対立や戦争を招いているという、なんとも皮肉なからくりがあるのにも驚きです。

教祖や宗祖が死亡したのち、残った弟子たちが教義の解釈の違いによって分裂し、互いに非難し合うという構図も、時代や国を超えて何度も繰り返されてるんだなー、というのも学びました。

さてそんな私が、法華経を読んで面白かったことがあります。

それは28品中の25番目「観世音菩薩普門品」というものなんですけど、そこには突如として「観世音菩薩」という名前が出てくるんです。

おそらく釈迦本人の説法ではなく、後世になって付け加えられた経典なんじゃないかなー、と思うんですけど、それはまあ置いておくとしましょう。


法華経観世音菩薩普門品25より抜粋


若有国土衆生 応以仏身得度者
観世音菩薩即現仏身而為説法
【もし国土に衆生あって、その者がまさに仏身によって得度するならば、観世音菩薩は仏身となって現れ、その者のために説法をする。】

応以梵王身得度者
即現梵王身而為説法
【梵天王の姿を必要とする者の前には梵天王の姿となって現れ、説法する。】

応以帝釈身得度者
即現帝釈身而為説法
【帝釈天の姿を必要とする者には帝釈天の姿となって現れ、説法する。】

応以比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身得度者
即現比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身而為説法
【出家した僧侶、尼さん、在家の男女の姿が必要な者に対しては、それらの姿となって現れ説法する。】

応以天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・非人等身得度者
即皆現之而為説法
【もし人ならざる者の姿が必要であれば、観世音菩薩はそれら全ての姿に即座に変化し、説法する。】



抜粋おわり。

さて、この経文には観世音菩薩とはどんな働きをするのかということが書いてあります。

観音さま、というキャラクターが様々なものに変化するというのは、イメージを掴みやすくするための方便だと私は読み解きます。

ここで肝心なのは、観音菩薩とは、「その人が得度(とくど=悟りみたいなものを会得)するのに最適な姿をとって現れる働き」のことだと思います。

その人の特性や必要性に応じて、様々な姿に変化して導くというのです。
それが仏の姿だったり、梵天や帝釈天の姿だったり、人の姿だったり、必要とあらば人外の者の姿にもなる、と書いてあります。
すごいですね。

でも、じゃあ、それをどうやって見分けるの?

目の前にいる人が、観世音菩薩の化身かもしれないじゃないですか。
でも、すんごい嫌な人とかが観音さまの化身だなんて信じたくないじゃん。

そこが、この観世音菩薩普門品のカナメとなる考え方なんじゃないかな、と私は思います。

たとえ目の前にいる人が嫌な人であっても、それは私のために敢えてそういう姿をとって現れた観音菩薩なんだ、と思うことにより、嫌な人から「何かを学ぼう」っていう心が芽生えるかもしれません。
嫌な人だからといって嫌ったり、攻撃的になったりするのを「少しためらう」ようにもなるかもしれません。

身の回りのあらゆるものが観世音菩薩の化身だという可能性がある、というのは、「万人の中に仏性がそなわっている」という法華経の理念にも一致します。

仏教というのは、嫌なものに満ちた娑婆世界にあって、そこに生きる人々の生命の中に眠る仏性をどこまでも信じ、それを見出す心眼を養うための手引書なんだろうな、と私は感じました。


ですので、基本的には修行の書物です。

これを「ワクワクしながら読める」というのは、なかなか難しいかもしれません。

お釈迦さまが弟子たちから「教えてくださいよぅ」と何度もお願いされても、「いやいや、お前らにこれを教えても、たぶん理解できないからやめときな」って何度も断ったといいます。それは「理解できない苦しみを受け入れる覚悟」を待っていたからなのかもしれませんね。

フォロワーさんのつぶやきの中に「法華経」というワードを見つけて、なんとなく思い出したので今回の記事を書きました。

なお、特定の宗教や団体を非難したい心は山ほどありますが、私は紳士なのでやりません(笑)。
ので、みなさんにも思うところがあるかもしれませんが、コメント欄に名指しで悪口を書いたりするのはお控え下さい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?