フス戦争人物伝 ヴァーツラフ•コランダ


フス戦争には様々な人物が登場します。
騎士、貴族、市民、聖職者など、身分や職業も様々です。

その中で、今回はフス派聖職者のヴァーツラフ•コランダという人物について軽く紹介いたします。

まず、フス戦争の元となった「フス派の思想」というものがあります。
カトリック教会の腐敗と堕落を糾弾し、宗教を清浄化させよう、というのがその基本理念となります。

しかし言い出しっぺのヤン•フスが焚刑に処されたのち、その思想を受け継ぐはずの後継者たちの間に解釈の違いが生じ、対話や講演会による平和的な宗教改革を目指す「穏健派」と、信教の自由を勝ち取るには武力によって相手を滅ぼすしかないという思想の「急進派」とに、フス派が分裂してしまいます。

ヴァーツラフ•コランダは急進派の僧侶でした。
プラハの南西にあるピルゼンという街を拠点にし、過激で情熱的な演説によって市民からの支持を得ていました。

ピルゼンは交易都市で、そこに住む商人は下手な貴族以上の財力を持っていました。
ピルゼン富豪の一つであるパビアンコフ家は、ヴァーツラフ•コランダ率いるフス派ピルゼン教団の強力な支持母体となっていました。
コランダはその財力を元に、プラハに居るフス派急進派の武闘派集団をピルゼンに呼び寄せます。
彼らに衣食住を提供し、ピルゼン付近のカトリック勢力を一掃してしまおうという計画でした。

武闘派集団の中には、戦争の天才ヤン•ジシュカがいました。
ジシュカはパビアンコフ家の財力を得て、新兵器の開発に着手します。
大砲を小型化させた手持ち式のハンドキャノンと、荷車に装甲や銃眼をあしらった戦闘馬車の開発です。

ジシュカはそれらの兵器を民衆に与えて訓練し、統率のとれた市民軍を編成しました。
その戦力は貴族の重騎兵の突撃を凌駕し、カトリック貴族の軍に対して連戦連勝を重ねるのでした。
コランダもそれに従軍し、民兵を精神的に鼓舞します。

当時、聖職者は殺生に対して複雑な立場をとっていました。
キリスト教においては、キリスト教徒同士の戦いや殺し合いは禁止されていました。しかし、異教徒に対しての殺生は、キリスト教を守護するという名目でならば許されていたのです。(ただし、聖職者自身が人を殺めることはさすがにタブーでした。聖職者は騎士や兵士を演説で鼓舞したり、戦場に従軍して戦地でミサを行ったりすることで戦争に参加していました。)

フス派の僧侶は、カトリック教会を「堕落し、異教になり下がったもの」であるとし、自分たちの教義こそがキリストの真意を汲んでいるものだとし、キリストの真実を異教徒から守るという名目で戦争の正当化を図っていたのです。

コランダ、パビアンコフ、ジシュカの連携により、ピルゼン近郊の戦闘はフス派の勝利が続きました。
しかし戦略的にはフス派は追い詰められてしまいます。
カトリック勢力と組んだプラハが、ピルゼンに対して兵を出して街を包囲して来たのです。また、カトリックの総本山であるローマ教皇はフス派に対して撲滅十字軍を招集しようとしていました。
それにともない、ピルゼンに貿易停止の命令が下り、ピルゼンは経済的封鎖をされることになってしまいます。商売が滞ってしまったピルゼン市民はフス派に対して良い感情を持たなくなり、フス派追放の機運が高まります。

内外から圧力をかけられ、ピルゼンのフス派は止むを得ずカトリックと休戦協定を結ぶことになりました。

コランダ、ジシュカ、パビアンコフなどを先頭に、ピルゼンに住むフス派信徒400名が街から追放されることになりました。
行き先は南ボヘミア地方にあるターボルという要塞都市です。
そこはフス派の新しい拠点とすべく、建設が進められている場所でした。

休戦の条件は、フス派はピルゼンから撤退する代わり、次の街へ着くまでの道中の安全を保証するというものでした。
しかしフス派がピルゼンを出発した2日後には、カトリック側は協定を破ってフス派追撃の兵を出します。

その追撃軍を迎撃した戦いはスドミェルの戦いと言います。

スドミェルの戦いに勝利したフス派はターボルに到着しますが、その街はすぐにカトリック勢力の次なる目標にされてしまいます。

南ボヘミア地方の有力貴族、ロジュンベルクとの戦いが始まりました。
その戦いで、コランダと数名のフス派司祭がロジュンベルクに捕まり、投獄されてしまいます。

囚われの身となったコランダは、牢獄の看守を説得して味方につけ、外部へ救援を求めることに成功しました。同時に仲間たちと牢獄を抜け出し、近くにあるロジュンベルク派の要塞の一部を占拠して立て籠もりました。
そこへ、コランダを救援するためにフス派軍がやってきます。
要塞の内外で戦闘が起こり、コランダも投石で戦闘に参加しました。
そしてコランダの投げた石が敵兵に直撃すると、その兵士は亡くなってしまいます。

この戦いはフス派の勝利となり、コランダと仲間の司祭たちは無事に解放されました。
しかしコランダは、この戦いで自らの手で人を殺めてしまったことを悔います。
ここは不思議な感覚なのですが、演説で兵士を鼓舞し、その兵士が多くの殺人を犯すのと、自分自身がたった一人の兵士を殺してしまうのとでは、当時の聖職者にとっての罪の意識は全く違うものだったのでしょう。

コランダはそれ以降、自分にはミサを行う資格はないと思い、二度とミサを行うことはなくなったと言われます。

しかし聖職を辞することはなく、その後も急進派の司祭として数々の戦いに従軍します。

穏健派と急進派の決戦となったリパニの戦い(1434)に、コランダは急進派側として参戦し、敗北しました。
捕らえられましたが、穏健派の知人の奔走により助命されます。

フス派の内乱が終結したあとは、今度はボヘミア王国の次期国王の座を巡って政争が勃発します。
フス派出身のイジーという貴族が国王の候補となり、コランダに支持を求めました。しかしコランダはそれを拒否して捕らえられ、またしても投獄されてしまいます。

コランダはもはや高齢で脱獄することも叶わず、そのまま牢獄内で亡くなったと言われています。

急進派の司祭としてフス戦争を駆け抜けたコランダの死は、フス戦争の終焉とほぼ同時期でした。

彼の人生を、現代の感覚でジャッジするのはナンセンスだとは思いますが、彼が自らの手で殺害してしまった兵士に対し、コランダはどんな思いを持っていたのでしょうか。

コランダ自身は優しい心の持ち主だったと思います。
しかし、「神のため」とか「真実のため」という正義感が、彼の暴力性を覚醒させてしまったのではないでしょうか。

昨今のSNSで、悪いことをした人を血祭りにあげるようにみんなで叩く行為や、それを煽る行為が横行していますね。
また、過激な環境活動家による道路封鎖や、美術品へのテロ行為などもあります。
これらの行動の根底には、「正義感」があるのだと思います。

これ以上は論旨が変わってしまいますので、今回の記事はここでおしまい。

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