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きみの言葉遣いがきみの世界をつくる

前回の記事でこう書いた。

人間はこの世に存在してない(と思ってる)ものについて、考えられない・語れない・認知することができない。

当たり前すぎて気づかなかったことに気づいたら、こんな言葉に出会って、そうかそうかと腑に落ちた。

つまり、言葉が世界をつくる。
『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』p17



普段、僕らは意識しなくても呼吸している。意識するほうがまれっていうか。あまりにも馴染みすぎていることを客観的にとらえることってなかなか難しかったりするよね。
そういう当たり前のこと・常識・ふつうといった、気づかなかったことに気づいたら、これまで見聞きしてきたんだけれどスルーしてきたあれこれが蘇ってきた。

以前に参加した非暴力のグループワーク。主催している味沢さんのブログから。

メンズセラピーの基本構造にはナラティブセラピーも大きく影響してるけれど、ナラティブは社会構成主義という思想に基づいています。その社会構成主義は人が認識する世界は言葉によって構築されると考えます。家とか橋とかそれら現実に存在する一つ一つがすべて言葉によって意味づけられ概念化され、個人の中にも、共有される人々の中にも存在します。そしてその言葉の意味付けは身体感覚を伴う実体験が不可欠。


人が認識する世界は言葉によって構築される

「社会構成主義」という考え方らしい。この考え方をもとに生まれたのが「ナラティヴ・アプローチ」という方法。

今自分が陥っている生きづらさという悩みになんかいいかも!と思って、もっと知りたいと読んでみて、よかったのはこの二冊。
野口裕二さんの『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』。
伊藤伸二・国重浩一さんの『どもる子どもとの対話 ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』。 


世界がまずあって、それが言葉で表現されるのではなく、言葉が先にあって、その言葉が指し示すようなかたちで世界が経験されるというのが、社会構成主義の主張である。p17
ナラティヴ・アプローチが主張するのは、わたしたちの思考や行動がいかに言葉によって規定されているかということである。(中略)そうした言葉の枠組みに縛られて、わたしたちの思考や行動は大きく限定されている。そこをいかに突破するか、そのための工夫がナラティヴ・アプローチなのである。p203

ナラティヴとは「言葉」や「語り」を意味していて、語りを物語という視点から眺め直す方法がナラティヴ・アプローチというものらしい。


自分の言葉で語りなさいと促したとしても、相手は、私たちの意向にそった形で発言しようとします。それは、私たちの発語に含まれる意向、意図、方向性、さらに、どのような種類の語りに耳を傾けていくのかの姿勢に影響を受けるでしょう。p12
ナラティブ・アプローチでは、このような日常社会で繰り返されているやりとりにこそ、問題をいつまでも問題として維持させてしまう構造が隠されているとみます。つまり、表面化しているものだけをとりあげて、そこだけを焦点化するような会話のことです。p15
社会の常識的な、つまりはありふれた会話によって、機会を奪われていた種類の語りを、そこから前面に出すことを目的としているのです。p140


あなたの言葉遣いがあなたの世界をつくっている。その言葉遣いは時代や社会の影響を受けて、かなり限定・制限されてる可能性が高い。話を聞く相手の態度・姿勢によっても変わってくる。
僕らは言葉を自由自在に話しているつもりが実のところ無意識に縛られているんだろうね。その縛りがあなたを生きにくくさせてるのかもよ。って僕は解釈した。

僕自身のことでいえば、ひとりの「私」として話すことってそうそうなくて。学校や職場での立場・ポジションでの自分、その場を離れても染み付いて離れないことも多い。そもそもひとりの「私」として話すってどうしたらいいの?っていうレベルだったりするんだよなあ。

社会一般で常識と思われてる言葉遣い・考え方・生き方はちょっと置いておいて、自分の言葉で自分のことを語ってみること。そうできる相手を見つけること。
そうすることで、自分ならではの考え方・生き方が見えてくるのかなーと。

〜おわり〜

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