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【読み切り短編小説】シゲさんの冒険 ~天使の葬列~

 雲と獣の大冒険がアニメ映画になるらしい。

 なにやら、街頭ビジョンで派手にCMが流れている。

 雲と獣の大冒険とは累計五百万部以上の発行部数を誇る大ヒット絵本のことだ。何を隠そう、わたしが描いた絵本だ。しかし、映画化されてもわたしには一円も入ることはない。正確に言うなら、わたしはこの絵本の元原作者なのだ。知っての通り著作者人格権というのは、剥奪されることがない自然発生的な権利だ。

 しかし、わたしにはこの絵本の権利はない。

 わたしの名前は、兼田重千代。古い友人はわたしをシゲさんと呼ぶ。年齢は50歳。少し堀の深い顔立ちで、ローマ人っぽいと言われたこともあるが、生粋の日本人だ。

 かつては人気絵本作家だったが、今はしがないビルの清掃員だ。ビルの清掃員という仕事を馬鹿にしているわけではない。この仕事にも良いところがある。あまり、人に会わなくて済むところだ。わたしは、ある事件以降、人に会うことを恐れる様になった。

 今日はビルの清掃をしながら、一日中向かいのビルのCMが目についている。かつての自分の作品が映画になる。それは本来なら喜ばしいことだ。しかし、わたしは少しも嬉しくなかった。わたしが原作権を失った顛末があまりにも酷いものだったからだ。この酷いという意味は二つある。「世間から見て、酷い出来事だった」というものと、「真相を知るわたしにとって酷い出来事だった」というものだ。

 この二つには天と地ほどの差があった。

 とはいえ、今にして思えば、その酷い出来事もその後にわたしにふりかかってきた奇妙な事件の数々と比べれば、まあ、なんというか、平凡な日常の一コマに過ぎなかったのだと思う。そして、不思議な出来事に巻き込まれるきっかけもまた、雲と獣の大冒険がきっかけだったのだ。

 雲と獣の大冒険――。

 我ながら、よく描けた作品だと思う。しかし、この作品を描いているときは、少し不思議な感覚があった。この作品は、わたしが生み出したものではないという感覚だ。これについては、誤解がないように言っておくが、四谷勇気に描かされたという意味ではない。

 四谷勇気――。

 絵本作家時代の担当編集者だ。今や、売れっ子絵本作家件プロデューサーらしい。断じて言うが、あいつに絵本を描く才能なんてない。あいつは、人の作品をパクることしかできない盗作野郎だ。しかし、雲と獣の大冒険については、執筆時に共同執筆ということにしてくれと頼まれていたのだ。まさか、それがあんなことになるとは思いもしなかった。

 おっと、話がそれたが、雲と獣の大冒険は、なんというか、不思議な力によって描かされたようなそんな気がしていたのだ。だから、ある意味、原作者では無くなった今にして思えば、わたしは本当に原作者じゃなかったのかもしれない。

 もちろん、四谷勇気が原作者だとは断じて思いたくないのだが。

 ビルの清掃業務も終わり、やっとあのいまいましいCMを見なくて済むと思いながら帰宅の途についていたときのことだった。わたしは新宿の職場から、自宅のある高円寺へと向かって歩いて帰宅していた。

 とある人通りの少ない路地裏の近道を歩いていた時だった。わたしは、誰かにつけられていることに気がついた。わたしはそういった直感が子供の頃から強く、度々危機を救われることがあった。第三の目というと大げさだが、ひとより感覚が鋭敏だったのだ。

 その日も、その感覚に助けられ、尾行らしき数名の男達を巻くことに成功した。そして、やっと自宅にたどり着き、外を警戒しながらアパートのドアをしめて鍵をかけた。

 「兼田重千代先生ですね」と背後から話しかけられてわたしは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。

 「だ、誰だ? ま……待ち伏せしてたのか?」とわたしは鼓動を鎮めようとしながら言った。

 「待ち伏せ? ああ、もしかして尾行に気がついていたんですか? やっぱり、兼田先生ご本人で間違いないようですね。そんなに怯えないで下さい。取って食ったりしませんから」と背後で声がした。二十代後半くらいの若い男の声のようだった。

 わたしはゆっくりと振り返った。そこには、黒服姿の男が三人土足で廊下に立っていた。真ん中に立つ男は奇妙なほど存在感のあるイケメンな男だった。

 「不法侵入で警察に通報するぞ!」わたしは、少し声がうらがえりながら言った。

「警察を呼んでも来ませんよ。我々は、警察にコネクション……というか、圧力をかけるだけの権限がありまして」とイケメンの男がお辞儀をしながら言った。

「何が目的だ。金なら持ってないぞ! わたしの名前を知ってるなら、わたしが、今、何も持ってないことは知ってるだろう?」わたしは少し冷静さを取り戻して言った。

「お金なんか我々には必要ありません。いや、むしろ、兼田先生にお金になる話を持ってきました」と男は舞台に立った俳優のような大げさな身振り手振りで言った。

「どういうことだ?」とわたしは驚いて聞き返した。

「先生には世界を救ってほしいのです!」男は両手を広げて、芝居じみた声色で、そう言った。

 三年前のあの日、わたしはすべてを失った――。

 その日は、雲と獣の大冒険の大ヒットを祝う会が催され、銀座で酒を飲んでいた。編集件共同執筆者である四谷勇気は、打ち合わせがあるとかで二次会には来なかった。その二次会で、四谷が連れてきたという声優志望だとかいう女子とわたしは意気投合し、いささか酒を飲みすぎていた。

 この時、ちゃんと相手の年齢を確認しておくべきだった。いや、年齢うんぬんは関係なく、酔った勢いで女子を連れ回すなんてことは、いつものわたしならするはずもなかった。だが、相手がそれを望んだのだ。わたしのファンだというその声優志望の少女。そう、あとで知ったが、少女だったのだ。未成年の。

 その彼女が、酒に酔ったわたしを介抱して自宅にまで来たのだ。わたしは、明らかに飲みすぎており、その後何があったかはまったく覚えていない。

 ただ、この件が数日後に週刊誌を賑わすことになった。

 わたしのファンだと言ったその少女は、わたしに乱暴されたと証言した。まるで誰かが用意周到に準備したかのような証拠写真が、週刊誌には掲載されていた。

 大ヒット絵本作家の未成年淫行事件は、日本中を賑わすほどの一大騒動に発展した。

 わたしは、身に覚えのない出来事に精神的なショックを受けて、一人暮らしをしているマンションに引きこもっていた。テレビをつけると、今回の事件についての報道が流れていた。ニュースによると二時間後に、共同執筆者の四谷勇気が会見を開くというのだ。当事者のわたしを差し置いて、この男がなぜ会見を開くのか? わたしは驚いて記者会見の開かれるテレビ局の場所をネットで調べるとタクシーで現地に向かった。

 道路は混んでおり、タクシーはなかなかテレビ局につかない。わたしはネット配信されている記者会見をタクシーのなかで見ていた。

「この度は共同執筆者である兼田重千代が社会的に問題のある行動をしたことにつきまして、心よりお詫び申し上げます」四谷は記者達に頭を下げた。

 ちょっと待て。何を言ってるんだ? 俺が何をした? いや、覚えてないが、俺は無実のはずだ。

「みなさまに、もう一つ、兼田の件でご報告があります。雲と獣の大冒険という作品についてです。驚かれると思いますが、あの作品は九割以上わたしが創作したものです。わたしは編集という立場であるため、兼田を立てて来ましたが、この様な事件が起きてしまった以上、この作品が彼のものではないという事実を公表することにしました。真実は複数ですが事実は一つなのです」

 おいおい。何を言い出すんだ。逆だろう。いや、逆どころかお前は一割どころか、五分も描いてないだろう。

「多くのお子さんが読まれているということもありますし、雲と獣の大冒険の原作表記をわたしの単独原作とし、兼田はこの作品と無関係であることを出版社との話し合いの上で発表させて頂くことになりました。つきましては、安心してこの作品を手に取って頂ければと思います」

 わたしはタクシーを降りると、制止する警備員を押しのけ、会見現場へと駆け込んだ。

「なんば言いよっとや! 四谷ぁああああ! きさんっ! ぼてくりこかすぞ!」とわたしは地元福岡の方言丸出しで、四谷に殴りかかっていた。

【ぼてくりこかすぞ】は、その年のネットの流行語になり、わたしは書類送検の後、絵本作家を引退した。

「世界を救う? なんの冗談だ? それに、お金なんか、今更……」とわたしは黒服の男に言った。

「我々の依頼を受けて下されば、お望みの金額を出しましょう。世界を救うのですからそのくらい当然です! そのお金を使えば、先生の濡れ衣を晴らすこともできると思いますよ。なんなら我々が協力して四谷を業界から追放することも不可能ではありません。我々の調査によると未成年淫行事件は四谷が仕組んだ冤罪です」と男は大げさな身振り手振りをしながら言った。

 わたしは絶句した。そして、少し考えた後に彼らの話を聞くことにした。金がほしかったわけでも、四谷を追放したかったわけでもない。ただ、自分があのとき本当に何もしていないと証明してもらえることに心を惹かれたのだ。

「分かった。話を聞こう」わたしが、そう言った矢先、激しいプロペラ音が鳴り響き、アパートから見える駐車場にヘリが着陸したのが見えた。不思議なことに、その駐車場には車が一台も止まっていなかった。

「では、ご同行願います」と黒服の男は言った。

 わたしは、黒服の男達と共に駐車場に着陸しているヘリに乗り込んだ。まだそれほど遅い時間でもないにも関わらず、近所の建物はすべて電気が消えており、この騒動に気がついているものはいないようだった。いったいどんな手を使ったのか分からないが、近所中が眠りについてしまったかのようだった。

 不安そうにしているわたしに、黒服の男が話しかけてきた。

「ご安心下さい。先生に危害を加えることはありません。もし、先生になにかあれば、この世界は滅んでしまうかもしれませんので」

「いったい、どういうことだ? ちゃんと説明してもらえるんだろうな」とわたしは少し怒って言った。

「もちろんです。我々の拠点に移動するまで、我々の組織について説明させて頂きます」と男は言った。

 ヘリはかなりの時間飛んでいた。途中、眼下に海らしきものが見えたことで、このヘリが向かう先が島であることが分かった。

 黒服の男は、わたしに自分達の組織について説明を始めた。

 その話は驚くべきものだった。彼らは、戦前から活動している組織で、一般には知られていないが、超国家的組織だということだった。その成り立ちは、旧日本軍による満州でのある発見で設立された秘密組織が母体になっているとのことだった。

 一九三五年、現在の中国東北部、当時で言う満州の地で驚くべき生物の遺体が発見されたそうだ。その遺体は、肩甲骨から先に羽のような器官があり、形容するなら、西洋絵画に描かれるような天使の姿をしていたというのだ。不思議な透明の個体とも液体ともつかぬ半透明の物質に包まれており、まるで生きているかのような保存状態の良さだったそうだ。その、遺体に関して、当時の関東軍は秘密裏にこの遺体を分析することを目的とした組織を設立したそうだ。その秘密組織が現在の彼らの母体となっているというのだ。

「つまり、それは、天使の遺体が発見されたってことなのか?」とわたしは聞いた。

「ええ、信じられないかもしれませんが、それは我々の目には天使としか言いようがないものでした。残念ながら当時発見された遺体は、広島に持ち込まれた後、一九四五年に消失しました。世界で最初の原子爆弾は、天使の遺体をこの世から消すために落とされたのです」と男は平然と言った。

 まったくタチの悪いテレビ局のドッキリではあるまいかと疑ったが、ヘリに乗せられるまでの顛末は、あまりにも金がかかりすぎている。

「しかし、焼かれたのは遺体のすべてではありませんでした。遺体は切断され、その一部は我々の組織の元に残りました。戦後、GHQの調査をかいくぐり我々はその遺体の研究を続けてきたのです」と男は続けて言った。

「で、その天使の遺体とやらとわたしに何の関係が?」と聞きながら、わたしは少しその理由に心当たりがあった。

「おや、ここまで話してもまだ分かりませんか? 先生も、見たのでしょう? 世界の秘密を」と男は大げさな手振りで言った。

「まさか、それは……」そう言いながら、男の顔をあらためて見て、わたしは驚いた。その男は数年前に自殺した有名な舞台俳優だった。

「おや、もしかしてわたしにやっと気がついてくれましたか? これでも、それなりに知名度はあると思っていたのですが」と男は言った。

「世界の秘密とは、自分の意思とは無関係に流れ込んでくるイメージのことだな!」とわたしは少し身を乗り出して男に言った。

「わたしも、先生と同じだったんです。かつて舞台俳優としてそのイメージに従い演技をしていました。それはわたしの才能によるものではなかった。わたしはそのことに悩み自殺しようとしました。いや、実際に一度死んだのです。しかし、組織の手によって蘇生させられ、今は組織に所属して同類の人間を探す仕事をしているのです。先生の絵本もそうだったのでしょう?」と男は言った。

 たしかにそうだ。あの絵本はわたしがゼロから創作したものではない。なにか、不思議なイメージが流れ込んできたのだ。

「だが、それは今回の依頼に関係あるのか? あのイメージは、いったいなんだ!」

「慌てないで下さい。先生が世界の秘密を知っていることは、我々の組織は何年も前から調査していたのです。なんせ、先生の絵本に出てくるキャラクター。あれが偶然とは思えませんでしたからね」

「天使の翼は、空を飛ぶためのものではなく、アンテナの役割をはたしている……」とわたしは自分の作品に登場する天使のキャラクターについて引用するように言った。

「ええ、天使の翼はアンテナの役割をもっている。それは事実です。先生は創作したのではなく、世界とつながることでその事実を知ったのです」と男は言った。

「世界とつながる?」とわたしは聞き返した。

「そう言えば、四谷勇気の陰謀によって先生がはめられた件は、当時、調査していて分かった副産物です。先生が望むならば、証拠をリークして四谷を破滅させることも容易いことです。もちろん、我々なら証拠などなくともあの程度の小悪党はすぐに業界から抹殺できますがね。ですが、その前に先生には世界を救ってもらう必要があります。世界が滅びてしまっては、先生が復帰することもできませんからね」

 男がそういうと、ヘリは高度を落とし、とある島に着陸した。

 島は無人島のようだった。東京近郊の島だろうか? とても小さな島だが、こんな無人島があるという話は聞いたことがなかった。ヘリから見た島の大きさは、東京ドームくらいの大きさだった。上空から見る限りでは建物はなく、人が住んでいる形跡はなかった。

 何もない平地に、ヘリは着陸した。コンクリート上にうっすらと緑色の人工芝がひいてあるらしく上空からは草原にしか見えなかった。人工芝は、特別な繊維によって造られていて、ヘリの着陸にもびくともしなかった。

 着陸したヘリはそのまま、昔の特撮映画のようなノリで地面がぱっくりと開くと、地下へと格納されていった。我々もヘリと一緒に地下施設へと入ることになった。

 「こちらへどうぞ」と元舞台俳優の男が手招きする方へ行くと、近未来的なデザインの上下斜めに開く自動ドアを抜けて、未来都市のような外観の地下施設へと案内された。

「ここは我々の組織の地下研究所です」と男は、ざっと施設を案内して回った。

 見たこともないような機械が無数にあり、多くの白衣を着た研究者が働いている様子だった。

「さあ、こちらです」と男に案内され、無数にある部屋の一つに入った。

 そこは、ロボットアニメで見たような広い窓が部屋の奥側についており、窓のさらに奥には、近未来的な椅子があり、そこに無数のケーブルが伸びていて、その真ん中に、一人の少女が座っていた。まるで、その少女を危険物か何かのように監視する部屋に見えた。

「この少女は?」とわたしは訪ねた。

「世界を滅ぼしかねない元凶となっている実験体です。彼女は人間ではありません。そして、残念ながら失敗作なのです」と男は悲しそうに言った。

「どういうことか説明してもらえるんだろうな?」とわたしは相手を睨んでいった。

「もちろんです」と男は答えた。

 少女を監視する部屋には、わたしに同行する黒服の男三人以外にも、数人の白衣を着た研究者がいた。わたしは、研究者が座る椅子と同じものに座らされ、となりに例の元舞台俳優の男が立った状態で今回の依頼について説明を聞かされた。

 目の前のガラス(ガラスかどうかは分からないが)越しにいる少女について、男は説明を始めた。この場所はヘリで聞いた通り、戦前に満州で発見されたという天使の遺体の一部を研究する施設だった。そして、その研究の副産物として生まれたのが、目の前にいる実験体九二五○号と呼ばれる少女であり、人間の年齢で言えば十七歳ということだった。

 彼女は天使の遺体に含まれる遺伝子から造られた人造生物だった。そんな彼女に対して様々な実験が行われ、中には非人道的なものもあったようだ。詳しいことは分からなかったが、人間とは異なる細胞と独自の免疫系を持つ彼女に、とあるウイルスが投与された時にその問題は発覚したそうだ。

 彼女は人間に感染するウイルスにも感染した。逆に言えば、彼女が感染しているウイルスには人間も感染するということになる。そして、実験室で感染させた人工的に造られたとあるウイルスが、彼女の体内で活性化することが分かったそうだ。驚くことに、彼女は強毒性のそのウイルスでは死ななかった。やがてウイルスは宿主のなかで繁殖しその性質を変異させていったそうだ。

 そして、現在。彼女は世界を滅亡させうるほどに変異した、超強毒性のウイルスの保菌者となっているというのだ。彼女をこのまま研究所に置いておけば、ちょっとしたミスで、そのウイルスが外に漏れてしまう危険があるというのだ。

「たいへん残念なことですが、実験体九二五○号は廃棄が決定しました」と男は少し悲しそうに言った。

 なんという残酷なことだろうか。人ではないだと? どう見ても人間じゃないか。しかも、可愛いらしい顔をしている。不思議な青いショートの髪の毛、まるでアニメのコスプレをしている少女のように見えた。

「兼田先生には、絵本を描いてもらいたいと思っています。それが今回の依頼内容です」と男は言った。

「どういうことだ?」わたしは驚いて聞いた。

「先生の絵本は、ただの絵本ではありません。それは、ここに来るまでの説明でご理解されていると思います。たしかに彼女は人間ではありません。しかし、我々としても彼女には愛着があり生き物として扱っています。法的には殺人にはなりませんが、非人道的な方法での処分は我々も心を痛めていたのです」と男は言った。

「なぜ、絵本を?」

「彼女は、先生の絵本……。とくに、雲と獣の大冒険が大好きでした」と男は言いながら、白衣の男に指示を出すと、彼女の座る椅子が複雑に回転し、彼女の背中が顕になった。

 彼女は半裸に近い状態で椅子に座らされており、肩甲骨が丸出しになった。そして、そこには、羽のようなものがついていた。それは、わたしが絵本に描いた天使の姿そのものだった。

「彼女は天使の遺体から生成された人工的な生命体です。組織は、彼女の見た目通り、彼女を人間のように育てました。彼女は幼少期から、先生の絵本を好んで読んでいました。ウイルスの投与実験をする直前まで、最新作である雲と獣の大冒険を何度も読み返していました」

 わたしはうつむいたまま話を聞いた。

「彼女は人間ではありえないほどの免疫力を持っています。ある意味不死に近い存在です。焼却処分でもしない限り死ぬことはありません。とくに危険が迫ったときの彼女の外敵を排除する力は圧倒的でした。しかし、いくつか実験をくりかえした結果、彼女にも、ある条件下では免疫が弱まることが分かったのです」

「ある条件。それはなんだ?」

「彼女は、感動で涙を流す時、無防備になるのです。つまり、先生には、彼女を本気で泣かせる新作絵本を、彼女のためだけに描いてほしいのです」

「では、もし彼女を泣かせることができたら……」

「彼女は体内に保菌するウイルスによって絶命します」と男は言った。

 猶予はあまりなかった。未来的な設備とはいえ、彼女が保菌するウイルスがもし外部に漏れる事故が発生すれば、またたくまに、世界に広まり、わずかな時間で人類は滅亡する可能性が否定できないということだった。それは自然界に存在するいかなるウイルスとも違うもので、まったく次元の違うものらしかった。空気感染どころの騒ぎではなく、漏れたウイルスは、数ヶ月も宿主無しに生き続けるというのだ。

 一般的な自然界に存在するウイルスは、そもそも、空気中で長い時間生存できない。壁などに付着してもすぐに死滅するため、仮に致死率の高いウイルスが発生しても、感染者がすべて死ねばそれ以上広がることはない。

 しかし、このウイルスは、無症状で二週間ほど潜伏した後に、とつぜん宿主を死に至らしめる能力を持っているということだった。ワクチンもなく、治療薬もないこのウイルスが蔓延すれば、現代社会では防ぐ手はないのだ。

 わたしは、一度この依頼をことわった。どう見ても人間にしか見えない少女を殺すために絵本を描くなんて、できるはずがないと思ったからだ。しかし、もしわたしが断れば、最後の手段として彼女を焼却処分することになると言われ、わたしは、この依頼を受けざるを得なかった。

 不死に近い彼女の焼却には数時間を要するらしく、その間、再生を繰り返す彼女の細胞が完全にチリになる瞬間まで意識があり、想像を絶する苦しみを味わうだろうと説明されたのだ。

 それから、施設の部屋を一つ与えられて、わたしは絵本の創作活動に入ることになった。

 二週間ほどの期間で、短編の絵本が完成した。

 この二週間、雲と獣の大冒険を執筆したときと同じ様な感覚があった。そう、まるでイメージが流れ込むように創作が進んだのだ。

 世界とわたしはつながっていた。

 そのなかで、絵本のイメージとは別に、誰かの視線で見た世界のイメージがわたしの脳裏に鮮明に流れ込んできた。

 そのイメージは、白衣の研究者にかこまれて施設で暮らす実験体九二五○号のものだとすぐに分かった。

 彼女は暇さえあれば絵本を必至で読んでいた。その絵本はわたしが描いたものだった。そして、彼女に様々な実験が行われたことをわたしはイメージを通して知った。

 たしかに、彼女は実験を受ける時以外は人間のように扱われていた。彼女も自分を人間だと思っているようだった。そして、イメージのなかで彼女は、ついに、雲と獣の大冒険を手にしたのだ。そのなかに出てくる、天使の姿を見て、自分と同じだと気がついたようだった。彼女にとって、雲と獣の大冒険は宝物になった。作者冥利につきるというものだ。

 しかし、時折、彼女のイメージには非人道的な実験のイメージがうつることもあった。ウイルス投与の実験のあと、彼女は酷く熱を出して何日も苦しんでいた。耐性があるといっても、平気ではなかったのだ。彼女の苦しみがイメージを通じてわたしに流れ込んでくる。

 もはや、彼女を救う方法はないらしい。わたしの絵本だけが、彼女を焼却処分という最悪の結末から、多少は人間らしい死に方にしてあげられるのだ。

 完成した絵本は、彼女が閉じ込められている部屋に慎重に運び込まれ、ロボットアームのようなものを使って彼女の座る椅子の前まで運ばれた。

 ロボットアームが彼女の顔の前で絵本を開くと、死んだような目をしていた彼女の目が輝くように潤んだ。

 ロボットアームは彼女の視線を確認しながら、ページをめくる。絵本を読む彼女は十七歳というには少し幼く、小学生くらいに見えた。彼女は時折、絵本の文章を声に出して無邪気に読んだ。

 わたしは、防護ガラス越しに、彼女が絵本を読む姿を見ていた。

 とても不思議な気分だった。自分の作品の読者が、どんな表情で自分の作品を読んでいるか、初めて読者の顔を見ていることに気がついた。

 絵本の内容にあわせて彼女の表情はくるくると変わり、わたしは息をのんでその姿を見守った。もう少し先に、泣きのポイントがある。そこから、怒涛のラストへと感動の場面が続く。今回の絵本は、わたしの生涯の最高傑作ではないかと思った。雲と獣の大冒険を超える作品になったと思う。

 もちろん、その内容は例の流れ込んでくるイメージによるものだ。それが何なのかきちんと説明を受けていないが、推測するに天使と関係する何かなのだろう。だから、雲と獣の大冒険同様に、今回の絵本もわたしの才能で描かれた絵本ではないのだ。そして、彼女がこの絵本を無条件で受け入れているのも、その天使にまつわるイメージと関係しているのだろう。

 絵本の残りページが少なくなり、彼女の表情は今にも泣き出しそうになっていた。

「……もう、これ以上……よ、読まないでくれ……今すぐ、やめてくれ……」気がつくとわたしは防護ガラスにはりついていた。

「読めば死ぬぞっ! そんなバカな話があるものか! 子供を殺す絵本などあってたまるものか!」わたしは声を荒げて言った。

「読むなぁあああっ!」
わたしは叫んでいた。もちろん、特別製の防護ガラス越しに、声が聞こえるはずもなかった。

だが、その瞬間、確かに彼女が絵本から目をそらしこちらを見たのだ。この施設にきてから初めて彼女と目があったことに気がついた。

 彼女は、ゆっくりと口を動かした。

 読唇術など知らないわたしでも、彼女が何を言ったのかはっきりと分かった。

 その後、彼女は視線を絵本に戻すと夢中で絵本の続きを読んで、やがて、声をあげて泣いた。そして、絵本の最終ページになったところで、安らかな顔になり、ゆっくりと目を閉じ、そのまま眠るように動かなくなった。

 彼女は最期に、わたしに「ありがとう」と言ったのだ。

 亡くなった彼女の遺体は、焼却処理されたそうだ。彼女のイメージで見た白衣のスタッフ達に、わたしは何度も感謝の言葉をかけられた。非人道的な実験も行われている施設だったが、彼らには、彼らなりのモラルがあるようだった。

 遺体を焼却する前に、ささやかながら実験体だった少女の葬儀が行われた。わたしは、その葬儀に参列してから、この島を離れることにした。

 わたしが島を離れる当日、例の元舞台俳優の男が、わたしに声をかけてきた。

「この施設で暮らすことも可能なのですが、先生が望まないのであれば、我々が無理に引き止めることはありません。この施設のことはくれぐれもご内密に。それ以外は、先生は自由です。あと、良いのですか? 濡れ衣を晴らさなくても」と男はわたしとの別れがさびしそうな表情で言った。

「わたしはもう絵本作家を辞めた身だ。それにわたしは、絵本で子供を殺した。そんなわたしが描いた絵本なんか子供には読ませられんだろう? 未成年淫行どころの話じゃない」とわたしは皮肉交じりに言った。

 東京の自宅に戻ると、わたしは報酬が振り込まれているという暗号通貨の口座をパソコンで開いた。そこには、五百億円相当の暗号資産が振り込まれていた。わたしは、それらをいくつかの口座に換金し、旅行カバンに荷物をまとめると、日本を出ることにした。

 日本にいれば、連日、雲と獣の大冒険のCMを見ることになるからだ。

 わたしのイメージの力や、天使の遺体について、いくつかの説明は聞いたが、わたしにはどうでも良いことだった。

 わたしは、手にした金の半分を寄付し、残ったお金で、残りの人生、世界を旅して過ごそうと考えた。

 世界への旅――。

 その旅先で、わたしは様々な奇妙な出来事に巻き込まれることになる。

 しかし、それはまた別の話だ――。


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