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榊正宗のどこよりも詳しいすずめの戸締まり考察。2万文字オーバー!

 ネタバレ有りの考察です。本編を見てから読んでね!現在2万文字オーバーです!多分、どこよりも詳しくて深い考察です!

▼ミミズとは何か?

 ミミズについては、多くの人がすでに考察していますが、ミミズと言う名称は、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」という短編小説から取ったものだと考えられます。ただし、これは名称と地震を起こすと言う設定のみで、詳細な役割や見た目などはオリジナルのものです。むしろ、扉から出てきて世界を破壊してしまうイメージは、SF小説三体における次元崩壊(高次元が低次元に流れ込む現象)に近いと思います。三体の作者である劉慈欣は、秒速5センチメートルのファンであり影響を受けたことを公言されています。新海さんも三体が大好きだと公言されていますので、すずめの戸締りに、なんらかの影響を与えていても不思議ではないと思います。劉慈欣先生と新海誠監督が通じ合っているのは偶然ではなく、二人ともアーサーCクラークの影響下にある作家だからだと思います。

 扉の向こうにある世界は、すべての時間が同時に存在する世界であり、オカルトやファンタジーではなく、高次元の世界として設定されていると考えられます。すべての時間が同時に存在する空間なので、17歳と4歳の鈴芽が出会うことが出来たわけです。「もし高次元で過去の自分自身に出会ったら何がおきるのか?」というのがこの作品の極めてSF的な仕掛けです。

 すずめの戸締まりは、ファンタジーにみせかけたSF作品だったのです!

 なお、すずめの戸締りがSFでありながら日本神話をベースにしているところは、劉慈欣先生も三体や短編で古代中国を題材にされており、アーサーCクラークの楽園の泉でも、古代インド神話を絡めているので、よくある手法です。

▼なぜ鈴芽の周りに二匹の蝶々が飛んでいるのか

 これについて「あの蝶々は、鈴芽の両親では?」という考察があります。しかし、それは、そういった解釈も出来るという程度のものかもしれません。
 この蝶々の元ネタは、村上春樹の1Q84、第7章 (青豆)蝶を起こさないようにとても静かに、のオマージュだと考えられます。

 蝶は時が来れば黙ってどこかに消えていく。きっと死んだのだと思うけど、探しても死骸が見つかることはありません。空中に吸い込まれるみたいに、何の痕跡も残さずにいなくなってしまう。蝶というのは何よりはかない優美な生き物なのです。どこからともなく生まれ、限定されたわずかなものだけを静かに求め、やがてどこへともなくこっそり消えていきます

村上春樹 1Q84より引用

 1Q84における蝶々は「死ぬとこことは違う世界に消える」事になっています。それを踏まえると、すずめの戸締まりにおける蝶々は、高次元から来て、鈴芽にまとわりつき、鈴芽が役目を終えたら消える存在だと考えられます。ある種のマーキングのようなものだと考えられます。

 ↑ティーチインではこのように新海さんが説明しているようですが、おそらくわかりやすく説明されたのだと思います。今回SF的な表現は一般向けにはあまり説明しないようにされているのだと思います。作品テーマとしては鈴芽の思いを表す小道具だと思いますが、蝶々がそう都合よく消えたり現れたりするのはおかしいですよね?なので、SF的には常世という高次元に干渉可能な存在であることは間違いありません。椅子や蝶々は常世でつくられたものでしょう。常世は人の想いを物質化するんだと思います。SF的な話に言及されているインタビューは、いまのところダビンチだけのようです。ダビンチ読者には、劉慈欣作品を紹介する流れで、SFに対する思いを吐露されています。

 すずめの戸締まりには、死者や幽霊は出てきません。草太は「常世は死者の世界だ」と言っていますが、幽霊は出てこないのです。ティーチインも踏まえた上で、蝶々が両親であるという解釈はありえません。そして、新海監督は本気でオカルトや霊を信じている人ではありません。あくまで、作中の草太が常世を死者の国だと言ってるだけです。

 常世の正体は間違いなく高次元の世界です。すずめの戸締まりはSF作品なのです!

▼なぜ羊朗は鈴芽に常世の秘密を教えたのか?

 ちなみに、羊朗という名前の元ネタは、村上春樹の羊をめぐる冒険からとったものだと思われます。母親の名前が椿芽というのも、春木→村上春樹を意識しているものであり、今回、村上春樹オマージュはめちゃくちゃ多いです。環さんも1Q84の大塚環が元ネタだと思われます。1Q84の大塚環はレズビアンなのですが、ずずめの戸締まりの初期の構想では、女性二人のロードムービーであり、環という名前は初期構想のまま使ったと新海さんが発言されているので、大塚環が元ネタで間違いないでしょう。

 さて、草太の祖父である羊朗は、最初は鈴芽にこの件にこれ以上関わるなと言いますよね。しかし、最後には「常世への入り口は生涯ひとつだけだ」と言って、鈴芽を草太の元へ送ります。これって、なんで急に考えが変わったか不思議ではないですか?

 これには明確な理由があります。

 鈴芽が、過去に自分自身に出会ってることを羊朗はすぐに見抜いたのです。鈴芽は「過去に母親と出会った」と羊朗に言います。しかし、常世への入り口は、ひとりに一つしか無いため、実際には死者に会うことは出来ません。それどころか他者にあうことすら出来ません。この作品には幽霊は登場しません。羊朗は、鈴芽が出会ったのは、母親ではなく、幼い鈴芽と今の鈴芽自身であったと気がつきます。そこから羊朗が導き出した結論は、鈴芽は少なくとも、自分に会う運命にあり、止めても無駄だということです。また「死ぬのが怖くないのか」と確認をしたのも「死を恐れないものは、常世で自分に出会ったものの特徴である」と知っていたからです。もしかしたら、同じことを鈴芽に聞いた草太もそういった経験があるのかもしれません(もしくは儀式があるのかもしれません)

 このやり取りから分かるのは、草太も羊朗も、死を恐れない鈴芽が、常世で未来の自分に出会った存在であることを感じ取ったのかもしれません。だからこそ、草太は鈴芽の同行をゆるし、羊朗は鈴芽に常世の秘密を教えたのです。

 この作品の最大の核になっている設定は、「鈴芽は必ず未来の自分に会う」=「鈴芽は少なくとも17歳になるまで絶対に死なない」=「17歳までは不死」という部分です。

 絶対に死なない最強のヒロインですよ!ワンパンマンより最強の存在です!!ヤバいですね!マジでヤバい最強のヒロインです!!!!

 この設定がわかっていると、鈴芽の行動が異常者のように見えることがなくなります。鈴芽はサイコパスなどではなく、未来の自分に出会ったことを忘れているだけなのです。鈴芽の行動の動機はかなり不明確です。動機なんか関係なく、17歳の鈴芽は幼い鈴芽に出会う運命になっているのです。そうすると、体が自然に動いて目的地に向かってしまうという理由が見えてきます。(しかし、SFとしては面白い設定ですが、作劇としてはかなり危うかったと思います。実際、鈴芽の行動があまりに唐突で感情移入できないという感想をよくみかけます)

 鈴芽は、自分が未来の自分に会った事を実は知っていて忘れているだけです。鈴芽は絶対に死なないからこそ、死を恐れないのです。

 鈴芽の戸締まりのラストを、ご都合主義のいい感じのラストと捉える人は多いかもしれませんが、実は非常におもしろいSF的なギミックをもったラストだったのです。

▼なぜ一人に一つしかない常世で、鈴芽と草太は会えたのか?

 先程の考察と矛盾することがあります。一人に一つしかない常世の世界では、他者と会うことは出来ません。会えるとしたら自分自身だけです。しかし草太は鈴芽のいる常世に居ます。

これは、草太が一度、要石になったからです。

 本来は鈴芽の居る常世に、草太が入ることは出来ません。しかし、要石はすべての常世に存在する人ではない存在です。常世という世界は、本質的には全て同じものでありながら、人によって違う世界(マルチバース)なのです。だから、草太は鈴芽だけの常世に入れたのです。常世はすべての時間が存在する高次元の世界です。そして、平行世界でもあるので、一人の人間には一つの常世があるのです。

 すずめの戸締まりは、高次元と平行世界(マルチバース)、次元崩壊による地震の発生を描いたSF作品なのです。

▼草太が椅子になった時、なぜ草太の体は消えたのか?

 序盤で草太がダイジンによって椅子に変えられますよね。一瞬で椅子になります。メタモルフォーゼ的な表現はありません。鈴芽の行動からみても、草太が消えたように見えます。椅子が存在せずに、草太が椅子になるなら変身ですが、もとから椅子はあったので、魂が移動したみたいな解釈になるべきところです。魂の移動なら、草太の体は残るはずです。ところが、草太が消えて、椅子だけが残りました。この現象は、質量保存の法則に反するような気がしますよね。
 これは、中盤で登場する、デスストランディングのような世界と関係があります。あの海岸の世界は、草太だけの常世です(常世は人の数だけあるマルチバース)草太は、椅子にかえられたのではなく、常世にとばされて、常世から拾ってきた椅子が近くにあったので、そこに繋がったのです。結果的にその椅子が、草太の要石になったわけです。おそらく要石というのは、常世と現世をつなぐ物質なのでしょうね。ちなみに、椅子に関してはちょっとパラドックスがあるように感じます。4歳の鈴芽は、未来から来た椅子を受け取ったので、この世界には椅子が2つあることになります。もしかすると、あの椅子は、鈴芽のイメージから常世で生まれたものではないでしょうか。本物の椅子は、津波でなくなったのかもしれませんね。鈴芽が最後に草太だけの常世に干渉できたのは、鈴芽の常世で生まれた椅子が媒介したからだと考えると奥が深いですね。このあたり、なかなか辻褄があっていて、凄いですよね。いや、ちょっと凄すぎますね(いや新海さんそこまで考えてないと思うよwとセルフつっこみしておきます)

▼東北出身のヒロインなのに作中になぜずんだ餅が出なかったのか?

 いや、別に出さなくても良いんですが……映画ではカットされているのですが、小説版では過去の回想シーンに思い出の食べ物として豆腐餅が登場します。え~!東北なのにずんだ餅じゃないの??って東北ずん子の原作者としては思ってしまいました。これにはちゃんと理由がありました。どうやら鈴芽の生家は、岩手県の津軽石駅の近くだったようです(正確な位置はぼかしてありますが、類似する電波塔が登場しています)
 岩手県は餅文化がめちゃくちゃ強い地域です。しかし、一ノ関のあたりでは、ずんだ餅もよく食べるようですが、北に行くとずんだ餅の割合は減少するそうです。岩手で食べられている、ものすごい種類の餅(300種類とか)のなかにおいて、ずんだ餅はそのひとつでしかないそうです。
 なので、岩手の北部出身の鈴芽にとって、思い出の餅は、豆腐餅だったわけですね。秘密のケンミンSHOWによると油で炒める豆腐餅は福島北部の裏メニューらしいのですが、餅文化の強い岩手県では、ちゃんと豆腐餅も食べられているようです。なにより、豆腐餅は自宅で簡単につくれるレシピも広く公開されているので、鈴芽の母親がおやつとしてつくる餅としては最適だったのかもしれません。新海監督は、焼きうどんにポテトサラダを入れたり、あえてちょっと変わった路線として豆腐餅を小説に書かれたのかもしれませんね。

 なお、宮城県の舞台挨拶ではずんだシェイクについて言及されたようです。宮城はずんだ餅と言う認識は持たれてるようで良かったです(何故か嬉しい)

▼鈴芽の椅子は、なんで足が三本なのか?

 新海監督は、人が椅子になるアイデアを分福茶釜からヒントを得たそうです。なぜ突然、分福茶釜?と思いましたが、これは平成狸合戦ぽんぽこが元ネタで間違いないでしょう。

 新海さんといえば、村上春樹、宮崎駿、富野由悠季の影響はすぐに分かりますが、今回、高畑監督へのオマージュもあったのかもしれないと思いました。というのも、このお三方ともギャグ演出があまり得意では無いんですよね。新海監督のギャグ演出の師匠は高畑さんなのかもしれません。すずめの家の本棚にあった赤毛のアンも高畑勲監督に捧げる意味があったのかもしれませんね。椅子になった草太が序盤では終始コミカルなのは、たしかに高畑監督的だと思います。芹澤が車で懐メロを流す演出も、おもひでぽろぽろの影響が少しあったのかもしれないですね。
 さて、椅子の足が三本なのは、新海誠本2によると、鈴芽の欠けた心を表しているのだとか。なお、舞台挨拶によると新海監督は「君の名は。において、死者を蘇らせたり、災害をなかったことにした物語に対して批判があったこと」を、かなり気にされていたそうです。新海誠本2によると、欠けた三本の足が、四本に戻る話にはしないと決めていたと書かれています。つまり、心に傷を負った主人公が、心に傷を負ったまま自分自身の足で立ち上がるという物語を作りたくなったんだと思います。
 結果的に、あちらを立てればこちらが立たず……ネットには「被災者への配慮が足りない」という苦言が一定数出てしまうことになりました(こうなってしまっては、新海さんはそれを払拭するような次の作品をつくらないといけないようですね……)
 なお、発表後の反響に対して、かなりショックを受けられたようで、星を追う子供のときに新海監督は熱を出して倒れられているのですが、今回も同じ様に熱を出されたのだとか。
 いや、そりゃそうですよ。実を言いますと、小説を読んだ時にこれは流石にヤバいと私も思いました。新海さんは本質的には善人気質の人ですから、これほど強烈に震災を扱えば、反動があるのは当然ですよ。
 ただ、逆にホッとしたのは、新海さんが被災者に対して悪意みたいなものは無かったんだろうなという事が分かったところですね。
 「心に傷を負っても前にススメ!」というテーマの作品は、表現の自由としては、もちろんあっても良いとは思うのですが、これほど大規模に公開してしまった以上、今後の新海監督のクリエイターとしての人生で背負うものになってしまった気はします。
 だって、その言葉は、他でもない新海監督自身にとっても、同じ様に「心に傷を負っても前にススメ!」と言ってる訳ですからね。すずめの戸締まりは、SFであったという所を落とし所にして、現実にコミットした部分はほどほどにして、抱えすぎない方が良いかと思いました。いままで、作品への批判をバネに次の作品を作られてきた新海監督ですが、被災者への配慮がないことについての批判は、流石に受け止めきれないのではないかと心配してしまいます。いまのところ初期に炎上しただけですが、現在着々と影響力のある批評家達が、すずめの戸締まりを叩く準備をされているようです……。年明けくらいには、かなり大きな批判のムーブメントが起きてしまう可能性も十分ありえます。たしかに影響力があれば責任もあるとは思いますし、批判されても仕方のない内容だと思います。

「ここは見世物の世界
 何から何までつくりもの
 でも私を信じてくれたなら
 すべてが本物になる」

「It's Only A Paper Moon」

1Q84の巻頭より

 最近の新海さんは、このあたりに触発されていらっしゃるのかもしれませんが、そうは言ってもなぁ。今回は何から何までつくりものではないですよね。現実にコミットしちゃってますよね。ベタですが「この作品はフィクションであり…うんぬん」を最初にだすべきだったかもしれません。

次回作はぜひ、宇宙なんかを舞台にして、無理に現実社会にコミットしたりせずに、好きなように何も抱えずに作って欲しいと思います。

▼芹澤朋也ってどういうキャラクターなの?

 芹澤朋也というキャラクターがめちゃくちゃ人気が出てますよね。テーマが重い本作において、自由に発言する屈託の無さが人気の秘密かもしれません。このキャラには3つのモデルがいると考えられます。

↑川村元気プロデューサー
↑闇金ウシジマくん
↑バクマンの神木隆之介

 芹澤のメガネは明らかに川村元気プロデューサーと闇金ウシジマくんを意識したものだと思います。芹澤が借金取りみたいに見えるというのは明らかにウシジマくんですよね。髪の色はバクマンの神木隆之介だと思います。

 えっ?なんで急にバクマン?と思われるかもしれませんが、バクマンは川村元気さんがプロデュースされていて、新海監督もお気に入りの作品なんです。

 もっといえば、芹澤朋也と宗像草太はバクマンコンビを意識したものです。つまり草太のモデルは佐藤健です。

 新海監督が芹澤の声優を神木隆之介にお願いした理由も納得ですよね。なるほど、ふたりはバクマンコンビだったのか~と。

 また、芹澤が80年代の曲を車で流すのは、川村元気氏の趣味にあわせたものだと思います。川村元気さん、映画モテキでは、やたらとポップスを劇中に使っていましたよね。また、映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の劇中で、松田聖子のヒット曲「瑠璃色の地球」をカバーさせていました。
 おそらく、このあたりの趣味は川村元気氏が口出しして入れさせたものだと思います。ただ、今回は逆に新海さんがいたずらで、川村元気氏をモデルにしたキャラを入れたのではないかと思います。川村さんとしては複雑な気持ちではないでしょうか。なお、80年代ポップスを劇中につかった理由は、魔女の宅急便のルージュの伝言を使いたかったのと、おもいでぽろぽろのオマージュだった可能性もあると思います。
 なお、松田聖子さんを入れたのは、川村元気氏への当てつけで間違いないと思います(笑)

 ちなみに、川村元気氏はといえば、最近公開されたバブルという映画のプロデュースもされていますが、こんなおちゃめなことをされていますのでお互い様ですね。

↑シン・カイ・マコトという新海誠をもじった三人のキャラ

 芹澤がタバコを吸うキャラなのは、闇金ウシジマくんと村上春樹原作のドライブ・マイ・カーの影響だと思います。ドライブしながらタバコを吸わせたかったんでしょうね。なお、ドライブ・マイ・カーのタバコにはちょっと曰くがありまして、そのあたりにも思うところがあったのかもしれません。

▼少女が子供用の椅子をかかえて走り回るという発想はどこから生まれたのか?

 鈴芽が子供用の椅子を抱えて走り回るビジュアルは、かなりインパクトありますよね。しかし、元ネタになったという分福茶釜にしても、椅子ではありませんし、いったいそのベースは何だったのでしょう。これはあくまで推測なのですが、子供用の椅子は、もともとはノートパソコンだったのではないでしょうか。

↑とある科学の超電磁砲の初春飾利
↑ノートパソコンをかかえた少女って、鈴芽のビジュアルに近くないですか?

 とある科学の超電磁砲は、長井龍雪さんがアニメ版を監督された作品です。新海監督は長井龍雪監督のとらドラ!が大好きなんだそです。君の名は。で田中将賀氏を採用したのも、とらドラが好きだったからと公言されています。

 また、新海さんは演出面では、富野由悠季監督を信奉していて、ほしのこえを作っていたときに、何度も逆襲のシャアを見返しながら作っていたそうです。そんな裏事情を知っていると、君の名は。逆襲のシャアに見えてきますよ(笑)

 そして、長井監督もまた、鉄血のオルフェンズを監督されたことからもわかるようにガンダムと富野由悠季の信奉者なんです。新海監督は、富野演出を青春アニメにした、とらドラ!に衝撃をうけたのかもしれませんね。

 なので、とある科学の超電磁砲の初春がパソコンを抱えているビジュアルから、パソコンを抱えながら、電子ロックを解除するハッカー少女みたいなビジュアルが初期にあったのかもしれません。

↑足を隠すとノートパソコンをもってるように見えない?

 いや、これは流石にそれらしい情報はなく、全くの想像なのですが、そう考えると、草太が呪文を唱えながら扉を二人で閉じているところが、SF映画でよく見る、ノートパソコンを電子ロックされた扉に接続してハッカーが危機を突破する場面を逆にした映像に見えてきません?考えすぎですかね?

▼鈴芽のヘアピンにはどんな意味があるのか?なぜ途中でヘアピンの数が減るのか?

 鈴芽のヘアピンのデザインについては、XIでローマ数字の11で間違いないと思います。

 IXでローマ数字の9であり、新海誠作品9作目を表しているという説もあるのですが、劇場作品としては8作目なので、劇場作品ではない彼女と彼女の猫を入れるのは無理がありそうです。3月11日が重要なキーワードとなる本作では11で間違いないと思います。
 なお、お風呂に入ったあとくらいで、ヘアピンの数が一本減っています。黄色いバンドがなくなり、赤の二本だけになります。

 これについて、明確な理由はティーチインなどでも、まだ説明されていないと思われます。ローマ数字のXIがアラビア数字の11になったことで、より311が色濃く表されているという可能性もあるかもしれませんね。

 ポニーテイルをしばるために使ったという可能性もあるかもしれませんが、なくなったのが黄色のバンドなので違うんですよね。漢字の八を表しているという可能性もあるかもしれません…。いや流石に考えすぎですかねぇ。このあたりは、お遊び要素だとは思うのですが、今後の舞台挨拶やインタビューであかされるかもしれませんね。

 ヘアピンは商品化されているのですが、紐状のものではなく挟むタイプなので、そもそもポニーテイルを縛るのには使えません。商品化するくらいなので、重要なアイテムなのは間違いなさそうです。

▼ラストで要石に戻ってしまうダイジンに全く救いがないのはなぜ?

 まず前提として、この作品が「かえるくん、東京を救う」のオマージュである事を思い出して下さい。かえるくん、東京を救うでは、かえるくんは東京を地震から救った代償としてミミズと相打ちになり凄惨な最期を遂げます。すずめの戸締りで、かえるくんに相当するのが、ダイジンです。現実にコミットした代償として、作品にはなんらかの暴力性が付加されたのだと思います。しかし、それではあまりにもダイジンが可哀想だと思った人も多いと思います。
 ダイジンの作中におけるポジションと言うか意味というのは、かなり悩みました。いったい、このキャラはなんなんだと。結論としては、ダイジン=新海誠監督本人と言うのが一番しっくりくると思いました。すずめに嫌われて痩せ細るダイジンの姿は、映画の反響を聞いて熱を出してしまう新海監督と重なります。
 善意で動いても悪意があると勘違いされて鈴芽に嫌われてしまうダイジン。良かれと思って作った作品をけしからん!と批判されてしまう新海監督。そして、今回もきっと批判があるだろうと確信犯的に生み出されたキャラがダイジンなのでしょう。そして、ダイジンは救われることなく要石に戻り、新海監督(自分自身も)次の作品制作へと戻っていくのだと言う気持ちを込めたのだと思いました。そうすると、ダイジンに比べて圧倒的に神々しいサダイジンは宮崎駿監督だと思います。ラストのビジュアルも宮崎駿監督のもののけ姫を思わせるビジュアルでしたよね。宮崎駿監督もまた、一度要石としては抜けてしまっても(引退しても)また、次の作品を作る事で(要石)になると言う表現だったのだろうと私は思いました。この辺りは、作品世界観ではなく、創作に臨むための心構えのような裏設定があり、それが反映された結果、ダイジンは救われないラストになったのだと思います。

▼椅子の足はなぜ三本なのか その2  村上春樹からの影響

 椅子について、村上春樹作品からの引用がないか調べてみたらありました。三本足の猫の話が、1973年のピンボールに出てきます。足が欠けている椅子と猫のダイジンは、この辺りから影響があったのかもしれませんね。

「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね」

1973年のピンボール

 ちなみに、新海さんはTwitterで、1番好きな村上春樹作品は、1973年のピンボールだと答えています。

 この作品、ものすごく映像的なんですよね。初期の作品ですが、今でも高い評価を受けています。すずめの戸締りは、震災を直接扱った作品ですが、実は本当に描きたかったのは、災害そのものではなく、人間の悪意の方だったのではないかと思うんですよね。いや、これは考え過ぎかもしれませんが、災害を通じて何か痛烈な批判があったのかもしれません。つまり、災害を人災のメタファーにしたのではないかと。うーん。考えすぎかなぁ。でも、そのくらい新海誠監督ならやると思うんですよね。何か引っかかるんですよ。特にラストの燃える岩手県。津波は描いてないのに火災を何故描いたのか。火災には何か違う意味があるのかも……。

▼鈴芽が今住んでる家について

 あまり考察してる人は見た事ないのですが、鈴芽と環さんが現在住んでる家は、かなり坂を登った高台にあり、崖の上のポニョを少し思わせる所があります。これは、おそらく、ストレートに津波の経験から、漁協で働きながらも自宅は港から遠い高台に買ったんでしょうね。購入費用は鈴芽を引き取るときに受け取ったお姉ちゃんのお金だと思われます。サダイジンが乗り移った時に「お姉ちゃんのお金があっても割りが合わん」と言ってるので、高台の家の購入でお金は消えたのかもですね。

▼風の電話と言う震災映画からの影響

 新海監督は、まだ公では発言されてないようですが、とある映画とすずめの戸締りの類似点が一部で話題になっています。風の電話と言う震災映画なのですが、すずめの戸締りは、この映画の影響をつよく受けている可能性が高いです。ただ、あまりにも設定が似過ぎているため、オマージュ発言をした時に、盗作疑惑が出て藪蛇になりかねないのねで、発言を止められているのかもしれません。

 君の名は。では、虹色ほたるの盗作疑惑が出てしまいましたが、おそらくオマージュだったのではないかなぁと思います。

 風の電話は、亡くなった人と話ができると言う岩手県に実在する電話ボックスです。すずめの生家とされる場所のかなり近くにあります。もちろん、死者と電話で事は出来ないので、やり場のない気持ちを吐露するための場所としてあるのだと思います。この映画、すずめの戸締りと、ロードムービーで被災地まで行くところや、環さんと鈴芽のように母を亡くして引き取られている所が同じ境遇だったりと、設定はほぼ同じと言っても良いくらい似てます。しかも、ヒロインの女優さんは、RADWIMPSのジャケットの表紙に使われたことがあり、新海さんだけでなくRADWIMPSにとっても関係の深い作品です。

ジャケットのモトーラ世理奈さんは映画風の電話のヒロインです。

 この作品のヒロインは春香という名前で、RADWIMPSの主題歌であるカナタハルカを、思わせるところがあります。これも、オマージュである可能性は極めて高いです。すずめの戸締りのラストはこの映画のアンサーとも受け取れるので、新海監督は影響を公言されても良いのではないかと思いました。気になる人は配信で観れるのでぜひ観て下さい。すずめの戸締りよりもかなり重たい作品ですが、震災映画としては傑作だと思います。

▼要石の元ネタについて その2 村上春樹からの影響

 要石について、村上春樹作品で類似する要素がないか調べてみましたが、わりとダイレクトに似た設定がありました。それが、海辺のカフカに登場する入り口の石です。この石は、こちら側の世界とあちら側の世界をつなぐ扉の役割をしているんです。わりとそのまんまで驚きますね。しかも、この石を通してあちらの世界に行くと猫と話せるようになるんですよ。これについては、海辺のカフカを再読していて、驚きました。いや、マジでうっかりしてました。海辺のカフカについては、ナカタさんというキャラに、つい気を取られていて本質的な設定の類似点を見落としていました。海辺のカフカは、天気の子でも多くオマージュされている作品なので、今回は無いだろうと思いこんでました。

↑戸締まり要素としゃべる猫がわりとダイレクトに海辺のカフカに出てくるのは盲点でした。

 今回ほんとうに村上春樹からの引用というかオマージュが多くて驚きます。もしかすると、次の作品は、ほんとうに村上春樹原作のアニメ化を目指されていて、すずめの戸締まりは、村上春樹へのプレゼンテーション的な作品なのかもしれないと思いました。

調べてみたら思ったより普通に、海辺のカフカからの影響についてはインタビューでも応えられてましたね。

↑新海監督はインタビューなどでも時々村上春樹作品のアニメ化を言及されています。

 今回の作品を三部作と区切りをつけるような表現をされているのも、次の作品は今までと違ったもの……つまり、オリジナルではなく、原作ありの作品のアニメ化を希望されているのではないかと思いました。そうすると、すずめの戸締まりが、かつてないレベルで村上春樹オマージュ満載なのも、なんとなく分かる気がしました。

▼最初の後ろ戸のイメージはどこから来たのか?

 すずめの戸締りの最初の後ろ戸でもある宮崎の廃墟にある扉ですが、このイメージに元ネタはあるのでしょうか。

テレビアニメ彼女と彼女の猫

 テレビアニメ版の彼女と彼女の猫のプロローグ演出に、そっくりなビジュアルがありました。

って言うか、サダイジンもいた(笑)

 あくまで裏設定的なものかもしれませんが、サダイジンは、鈴芽の母親(CV花澤香菜)が飼っていた猫なのかもしれませんね。

鈴芽の椅子の大きい版もありました

 この作品と母親の関係は、鈴芽と環さんの関係に似ています。黒猫がお互いに本音を言わせるきっかけを作るところも同じです。テレビアニメ版の彼女と彼女の猫は、新海誠版彼女と彼女の猫の前日譚です。

ラストで新海誠版の白猫につながります

 この白猫がダイジンなのかも。そして、新海誠版彼女と彼女の猫が、すずめの戸締りの裏設定的な前日譚と言えるかもしれませんね。

▼すずめの本棚について

 新海作品では、いつも本棚にちょっとした仕掛けがあります。今回は、すずめの部屋の本棚に老人と海、ライ麦畑でつかまえて、かもめのジョナサン、はつ恋、赤毛のアンがあったようです。
 老人と海については、ちょっとどういう意図か難しいのですが、アレクサンドペトロフの油絵アニメーションに関連するチョイスかもしれないと思いました。ライ麦畑でつかまえては、村上春樹の翻訳が出版されています。天気の子でも登場していますよね。かもめのジョナサンについては、翻訳をされている五木寛之と村上春樹が対談をしているからかな?はつ恋については、ツルゲーネフのルージンという作品を読むシーンが世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドに登場します。赤毛のアンは、村上春樹との関連性があまりなさそうなので、高畑勲監督に捧げたものだと思います。というか、わりと新海さん赤毛のアンをよく引用するんですよね。

 なお、本棚について、ティーチインの説明によると、この本棚のチョイスは、鈴芽の本は漫画などで、それ以外は環さんが読ませようと置いたものみたいな感じのようです。このあたりは、親になった新海監督のリアルな親子関係が反映されているのかもしれませんね。

↑赤毛のアンが好きだったことについては、ここで言及されています。なお、意外なことに魔女の宅急便は劇場公開当時はそれほどでもなかったのだとか。

▼芹澤がドライブ中に歌をうたう元ネタについて その2 村上春樹からの引用

 いま、海辺のカフカを読み直してみているのですが、やはり、かなり影響が強いようです。ただ、村上春樹はJPOPなんかはあまり作中には出さない作家です。なので、このカラオケ描写はさすがに村上春樹ではないだろうと思ってましたが……ずばり同じ描写がありました(笑)

海辺のカフカより

 ↑海辺のカフカでは、異世界の扉を開いてしまったナカタさんというおじいちゃんを元自衛隊の星野という青年が、車で四国まで送る話が出てきます。その旅の途中で星野青年が井上陽水の「夢の中へ」を歌うシーンがあります。芹澤のモデルとしてもこの青年は候補にあがってきますね。容姿などは違いますが、性格はちょっと似てるかもです。

▼小説の中での蝶の描写について

 映画の中では蝶が沢山出てきます。この蝶は絵コンテで追加されたもので、小説にはないと新海監督もおっしゃってるようですが、小説にも蝶の描写がありました。

 小説版のすずめの戸締まりには「モンキチョウがお母さんの後ろで舞っていて……」という描写があります。椅子と蝶が母への想いを表現している理由が小説では描かれていたんですね。あと、焼きうどんを食べたという描写もあり、四国で深夜に焼きうどんをたべる伏線になってるんですね。

▼芹澤が猫と犬は違うと発言した元ネタ 村上春樹からの引用

 今回あらゆるところで引用される村上春樹ネタ。芹澤のちょっとしたセリフの中にもありました。ドライブにサダイジンが加わったところで「猫ってさぁ理由もなくついてこないでしょ?犬じゃないんだからさぁ」と芹澤が言います。これと同じような台詞が、海辺のカフカにもありました。

海辺のカフカで言及された猫と犬の対比

 もちろん、一般論としても猫と犬の違いとして、猫は犬みたいについてこないという特性はあるでしょう。ですが、わざわざそういったセリフを芹澤に言わせたのは、もっと深い意味があったのだと思います。

▼キャラクターの名前の元ネタはなに?

岩戸鈴芽 → 天岩戸+アメノウズメノミコトから
宗像草太 → 宗像三女神から→宗像大社
ダイジン → 右大臣から
岩戸環 → 1Q84の大塚環からかな?
岡部稔 → アニメーターの大橋実さんかな?
↓この方ですが、今作の筆頭アニメーターの方です。似てますよね(笑)

二ノ宮ルミ → 二宮神社から
海部千果 → 籠神社の海部氏からかな?
岩戸椿芽 → 鈴芽の対比から、春木→春樹からかな?→ピラミッド帽子よ、さようならの椿先生が元ネタで間違いないと思います
芹澤朋也 → 川村元気→川のある村→芹と澤かな?
宗像羊朗 → 羊をめぐる冒険からかな?

▼すずめの靴が片方抜ける演出の意味は?

 橋から飛び降りる前に鈴芽の靴が脱げますよね。その後川に落ちて、皇居の地下に入ります。そこでは、片方だけの靴でしばらく歩いてから、その片方の靴も脱げてしまいます。そのまま、靴下で地上にでて電車に乗ります。このあたりの一連の流れは、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを意識されたのかと思いました。片方だけの靴が、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドにも登場します。世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドに登場する地下世界は神宮球場のあたりで、すずめの戸締まりは皇居の地下なので、繋がってるのかもしれませんね。

▼ピラミッド帽子よさようならからの影響について

 新海誠監督が、子供の頃に読んで影響を受けて、星を追う子どもを制作するきっかけになったと明言された作品「ピラミッド帽子よさようなら」を読んでみました。

 実際に読んでみて、いろいろと発見があったので、メモしておきます。
 この作品にでてくる椿先生というキャラクター、古典の教師で古事記に関する説明をしてくれます。このあたり、星を追う子供でも引用されていますが、おそらく、言の葉の庭と、君の名は。の雪野先生の元ネタです。そして、椿という名前は、すずめの戸締まりの岩戸椿芽、つまり鈴芽のお母さんの元ネタで間違いないでしょう。以前推測した春木→春樹という連想もあると思うのですが、雪野先生とキャラクターとしてかなりそっくりなので、同じ花澤香菜さんが演じる椿芽のメインの元ネタは、椿先生で修正しておきます。この作品には、アガルタと言う地下世界が登場します。アガルタは、ほしのこえにも惑星として登場します。そして、星を追う子どもでは、明確にオマージュとして地下世界として描かれました。アガルタという用語は、ピラミッド帽子よ、さようならのオリジナル単語ではなく、オカルトではよく出てくる架空の地名ですが、新海監督はピラミッド帽子よさようならから引用したと公言されています。すずめの戸締まりの常世もアガルタのオマージュで間違いないと思います。星を追う子どものリメイクと言うより、ライフワークなんだと思います。

アガルタ (Agartha) は、19世紀末から20世紀にかけてのオカルト的伝説においてアジアのどこかにあるとされた地下都市である。スリランカの伝説とされることもある。

Wikipedia

 この作品、児童文学でありながら、生と死について、そして戦争や核兵器について深く考えさせられる物語となっています。さらに、夢に関する描写が多いのも新海さんに影響を与えていると思われます。メタファーやテーマは、村上春樹にも通じるところがあります。地下都市の鉄道は、アーサーCクラークの都市と星にも似ています。児童文学とは思えないほど、ドキッとする描写が、ときどき何の説明もなく挿入されるので、大人が読んでも飽きずに夢中になると思います。逆に児童文学の枷があるので、よりエロスが強調されているとすら感じました。このあたりの表現は、新海作品が、直接的なエロ描写などは無くても、かなりエロいことを知ってるファンの人には、なるほどと感じると思います。新海作品ファンなら、引き込まれること間違いなしです。あと、文体がちょっとおもしろくて、新海さんもあとがきに書かれていますが、地の文が主人公の軽いモノローグになってるのですが、軽快で気持ちの良い文体です。この文体、まさに新海さんの小説そのものです。新海さんの小説っておもったより、村上春樹ではなく、ちょっと軽めのラノベみたいな文体がメインなんですけど、その元ネタはこの小説で間違いないようです。すずめの戸締まり小説版を読んでから、こちらを読むと、似てるなと思うはずです。(男子キャラなので天気の子の方がわかりやすいかも)偶然かもしれませんが、世界的SF作家のコニー・ウィリスもこの文体というか、似た表現なんですよね。地の文でセルフツッコミみたいな軽いモノローグというか心のセリフを入れる表現が特徴的です。

 新海監督は、コニー・ウィリスの航路を好きだと発言されています。

 コニー・ウィリスの航路が雪野先生の部屋にあったのは、もしかすると新海さんはこの共通点に気がついてたのかもしれませんね。そして、ピラミッド帽子よ、さようならは結末が書かれてないのですが、新海さんがそれを、巻末の解説で「呪い…あるいは祝福」と言ってる理由なのですが、これを考察として書いてしまって良いのかちょっと迷いますが、おそらく間違いないと思うので書きます。

 この作品のヒロインには「破壊」に惹かれるという趣旨の台詞があります。その発言は物語のかなり重要な伏線です。しかし、それについては結末は語られず未完となっています。

 この作品に描かれなかった結末は、おそらく世界の崩壊で間違いないかと思います。伏線の多くが「世界の崩壊」を肯定的に捉えているようなニュアンスが読み取れるのです。もちろん児童文学なので、「世界の崩壊」を阻止して終わっただろうとは思いますが、崩壊を肯定するエピソードがクライマックスにあったことは伏線から想像できます。いや、崩壊の肯定どころか美しいとすら言ってるように受け取れます。ピラミッド帽子よ、さようならには、人が直視できないものは「太陽と死」だというセリフが出てきます。これは、ラ・ロシュフーコーからの引用ですが、この作品では片目を手でふさぐと太陽をみることができる、死も同じだと言っています。

↑この台詞については、新海さんも星を追う子供に入れたかったが、カットしたと発言されていました。

 えっと、新海さんが一番影響を受けたと思われる内容。そして、新海作品に深く根をおろしている呪いについて、結論を言いますが、それは次の章で。

▼新海誠監督が、すずめの戸締まりでほんとに描きたかった事

 この件について新海さんはさすがに、公では簡単に発言されないと思いますが、インタビューなどから推測できるので書いてしまいますね。新海さんは、東日本大震災のときに、星を追う子供という(ピラミッド帽子よさようならのオマージュ)作品を作っていて、自分のある特殊な感性に気がついてしまったのだと思います。

 おそらく、新海監督は、災害により人類文明が破壊されていく姿をみて美しいとおもってしまったのです。

 そんなバカな?倫理的には、まったくあってはならない感情です。

 しかし、新海誠三部作を思い出してください。そして、最近の新海さんの発言を思い出してください。

新海監督は、誰かを傷つけないようにというレベルではなく、世界が崩壊する姿の美しさを描いているのです!!人類の存在否定です!ヤバいです!

 ただ、新海監督はそれを描きながら、同時にうしろめたさを感じていたわけです。人が大勢死ぬところをみて、美しいとおもってしまう自分の負の感性に対する贖罪。それが新海作品の根底にある闇であり、作家性でもあるのだと、ピラミッド帽子よ、さようならを読んで思いました。新海さんが、表面では「大丈夫」という希望を強く描きながら、同時に、世界の破滅を美しいと感じていることを描かずにはいられない。光と影こそが新海誠作品の魅力なのです。しかし、今回、アガルタに相当する常世に鍵をかけて閉じてしまう話です。今回の戸締まりで、負の感性を封印するのか、むしろ、よりダークな作風になっていくのか、今後の新海作品からも目が離せませんね!

 というか、ピラミッド帽子よさようならの続きを新海監督が書いて下さい!わりとマジにお願いします!

▼初めてティーチインに行ってきました!

 撮影禁止だったのですが、新海監督だけの登壇ということもあり急遽撮影OKになりました。

 ティーチインでは、いつもご自身でやられているというビデオコンテの音声を生で実演されていて、本当に上手くて驚きました。ご自身で声優をされたほしのこえ時代よりも遥かに上手くてプロの声優さんレベルでした。新海作品の声優さんの違和感のなさは既にビデオコンテで芝居が作り込まれている事によるものなんですね。

 質疑応答のメモ

 東京の地下にある門の元ネタが黒澤映画の羅生門が元ネタであり、映画好きな人へのサービスだったそうです。

 芹澤の車がガムテープで補強されていたのは、JAF的なものを呼んで直したのでは…との事。

 今回の作画で、頭身が高いリアル系なのは、作画監督の土屋さんの画風に合わせたのと、311を扱う上でリアリティが必要だと考えたからだそうです。キャラデザの時点で田中さんに頭身高くするようにお願いしてたそうです。

▼来場者特典 環さんの物語について

 椅子の秘密が明かされましたね。あの椅子は本物の椅子ではなく、常世で生まれたモノで間違いないようです。また常世でのダイジンの影響があったのか、海辺のカフカのオマージュか、なぜか猫語を理解するようです(鈴芽の妄想かもですが)本物の椅子は津波で流されたのだと思います。また、常世について異空間という言葉が環さんの想像としてですが、出てきます。やはり、常世はSF的な解釈があるように思いました。

 世間の感想を見ていると鈴芽のキャラに共感できない人も多いようですが、子供の頃から近所のアイドルになってしまうような、かなりの不思議ちゃんだったようです。

 誰とでも仲良くなって場の中心になってしまう鈴芽のカリスマ的なキャラは、天才子役である新津ちせちゃんがモデルなのかもしれないですね。ビデオコンテの小すずめの声はちせちゃんだそうです。ちせちゃんは、既に声優デビューもされてるので、将来はもしかすると声優さんの仕事が多くなるかもしれないですね。

▼最新のティーチインから鈴芽のヘアピンについて判明

 私が参加した後のティーチインで、鈴芽のヘアピンについての言及があったようです。鈴芽のスマホケースがヘアピン入れになっており、いくつかピンが入っている。後半二本に減るのは、椅子がなくなったので、椅子の黄色(母親のイメージ)と同じピンを外したのと、鈴芽はバツ字にするのを子供っぽいと思って一本外したとの事。XIかIXかと議論してきましたが、数字は関係なかったのかな?

▼30日の今年の戸締まりTwitterスペースにて

 キャラクターの名前の元ネタについて

 宗像羊朗 → なんと、羊朗は新海さんの祖父の名前。羊をめぐる冒険や
RADWINPSの洋次郎さんもちょっとだけ頭にあったとのこと。

 芹澤朋也 → 新海さんのいとこの名前がトモヤ。また、芹澤という名字は、映画ファン向けに、ゴジラの芹沢博士を連想させることを意識されたそうです。新海さんは特撮関係に言及されることは少ないですが、東京の地下が羅生門だったりと、古い名作映画も意識されることがあるようですね。

 次回作について、現段階では白紙だが、SFをやりたいという思いもあるそうです。ですが、川村元気氏に「クリストファー・ノーランですらインターステラーはヒットしてない。SFは売れない」と言われているのだとか……。個人的には、新海監督による1万年ほど未来のSF作品を見たいなぁと思いました。3本100億超えてるのですから、そろそろガチのハードSFを解禁しても良いのではないでしょうか。劉慈欣氏が映画にコメントしてくれたら、中国では大ヒットすると思いました。

▼ムシヌユンからの影響について

  新海監督が大傑作と公言されているムシヌユンを読んでみました。ちょっと前にオススメされていたロッタレインもかなりヤバいと思いましたが、こちらもヤバいです。新海監督がよくいわれている「誰も傷つけない作品」の対極にあるようなハードな性描写のあるSF作品です。
 ミミズのおぞましくも美しいビジュアルは、ムシヌユンの影響がかなりあるかもしれないと思いました。しかし、新海さんの好みを分析していくと、もしかしたら、人間椅子という発想のもとネタに、戦後最大の奇書とよばれる家畜人ヤプーの影響もあるかもしれないと思いました。新海さんと家畜人ヤプーについては、御本人は公言されていませんが、奥さんが女優さんで、舞台家畜人ヤプーに出演されているんですよね(えっと、このあたりは別に隠されているということはないと思いますが、ライトな新海ファンはあまり検索しないようにね)

家畜人ヤプーの人間椅子

 新海監督作品は、ダイレクトにハードな性描写はありませんが、どこか不思議と暴力性を内包しているのは、そういった新海監督の好みというか影響をうけた作品のエッセンスが反映されているのかもしれませんね。ムシヌユンや家畜人ヤプーについては、なかなか一般の人が読むにはキツイ本なので無理に調べないことをオススメ致します。新海作品の世間のイメージとしては、美しい背景描写とティーン向けのライトなエンタメというのが最近の評価だと思いますが、その裏にはとてもハードコアな一面が隠されており、そこが無意識に人を引き付けているのかもしれないと思いました。

▼ひよこ戦争について

 今年の戸締まりスペースで、環さんが東京土産にひよこを買っているシーンが登場することについて言及がありました。言及と言うか、新海さんわりとふつうに東京のひよこを東京土産として買われていたようで、ほんとうにご存じなかったようでかなり戸惑われていました(笑)。

 ひよこというお菓子は福岡発祥のお菓子なのですが、東京に進出したときになぜか東京土産として定着してしまったらしく、東京名物と思っている人がおおいのだとか。わたしは福岡生まれなので、ひよこは福岡のものだと思っていましたが、今度実家に帰る時に東京土産としてひよこを買って帰ったらどういう反応をされるか試してみたいと思いました。

 ひよこの公式ページには上記のように書かれており、東京から全国に定着したものの、東京から福岡のお土産にするのだけは微妙になってしまったように思います。まあでも、東京ばな奈にしても別になにか東京由来の成分があるわけでもないので、お土産物として売ってるのだから仕方ないということではないかと思いました。スペースでの会話によると「環さんは、東京にもひよこを売ってたというノリで買ったということにしよう」というところで、今後のティーチインではそう説明すると新海さんはおっしゃっておりました。しかし、みなさん細かいところをよくみられてますね。

 食べ物ついては小ネタがいろいろあるようで、新幹線では「シンカンセンスゴイカタイアイス」を食べている描写があるそうです(気が付きませんでした)。


↑なるほどーと思った方は、拡散してあげてください。


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