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おにぎりで満足する老人とバイキング料理でないと満足できない孫

母がテレビを見ていた。ある一かがあった。貧しかった。しかし子供はすごく頭の良い子だった。

いい大学へ行かせてあげたいが、お金がない。

母は言った。

「お金のかかる大学に行かなくてもいいのに。そこらの大学で頑張れば十分なのに」

僕はすかさず言った。

「それは押し付けだよ。バイキング料理を食べたい子供に、おにぎりだけで満足しろと押し付けているだけだよ」

なぜおにぎりとバイキング料理の話が出たのか。

年を取ると僕たちは「無駄をそぎ落とし、最小限の効率で最大限の成果を生み出す」効率化ができる。

効率化は仕事のみならず生活にも当てはまる。
若い頃はフルコースやバイキングに目がいったのに、
年を取ると「おにぎりや白身魚の焼き物、漬物で十分」

食に対するこだわりも変わってくる。

若い子に白身魚とおにぎり、漬物のみで十分かといったら、全く満足しないだろう。肉も食べる、デザートも食べる。

大人から見て「それは健康を害するかもよ」思ってしまう食事をとりがちだ。「最適化」の反対「無駄」を接種している。

最適化のメリットは無駄な行動をとらなくなり、
どんな生活を送るといいかも決まってくるところだが、

一方で最適化のデメリットは「無駄」に注目しなくなるため、
「無駄から生まれる想定外のストーリー=新たなる時代の流れ」には目を向けられない。

新たなる時代の流れに出会うと
「なんでこいつらはこれで盛り上がっているの?」
理解不能な現象に見舞われる。

理解不能だからこそ「バカじゃないの、こいつら」から始まり、
「こんな無駄なもの規制してしまえ」場合によって封じに向かう。

「効率化された自分」を基準に物事を考え、
「無駄も欲している孫」の気持ちなど捨て、
強引に「無駄なき世界」を創ろうとする。

効率化の極致は「何もすることがない日々」であり、
時間だけが過ぎていく「心にぽっかり穴の開いた日々」であり、
何かしようとしても「無駄な作業をするな」と、非効率な生き方を自分自身で食い止める「行くも行かぬも地獄」の日々だ。


年を取ると、おにぎりでも十分に満足できる。
わざわざフルコースやバイキング料理を食べる必要もなくなる。

だからこそ年をとってもバイキングやフルコース料理を自分から食べに行き、最適化・効率化を自分から外していけば、新しい出会いが待っているのかもしれない。


ここ最近、自分の中でうまく言葉にしたいのだけど、なかなか表現できず苦しんでいた。今日の記事でもまだうまく言葉にできず、苦しい状態だ。

今回の記事は1週間ほどたったら消す予定。
期間限定なのでお早めに。

PS

おかげさまで読まれています、ありがとうございます。
これも暗黙のコミュニティの一つにあたるのだろうな。


支援していただきありがとうございます。支援は僕の作品作りを含め、子供へのお小遣いや楽しいことに貢献します。ありがとうございます