見出し画像

おせちを囲んで思うこと。

2022年の正月は、2年ぶりに岡山の実家で過ごした。

毎年のように年始を実家でむかえていたのに、帰省を控えた2021年。世間の騒がしさが少し落ち着いてきたということもあり、2022年の年始は実家で過ごすことにした。

実家に帰るとき、わたしはいつもほんの少し身がまえる。

わたしの人生であと何回、親の顔を見れるのかな、そんなことが頭をよぎる。この帰省が数十回分の1、もしかしたら数回分の1になるのであれば、親とは何か有益な言葉をかわすべきではないのだろうか、と考えてしまう。たとえば、親がどのような人生を歩んできたのか、大きな決断のときにどんなことを考えていたのか、今後の人生でどんなことをしたいのか…

帰省前にはいつもそんなことを思うのに、実を言えば、親とはあまり深い話をしたことはない。いつも互いの仕事の笑い話だったり、飼い猫の話だったり(その子は去年お空に行ってしまったのだけど)。最近こんな調味料に凝っているだとか、この食材はこんな食べ方をすると美味しいだとか。些末すぎてLINEでもやりとりしないような、本当にたわいもない話をして実家での時間は溶けていく。

2021年の年末、満を辞して岡山へ帰省することにした。
もちろん、今回こそ親とは少しでも真面目な話をしよう、と決意を心に掲げていた。

結婚してからは、わたしの夫も岡山の実家に帰省している。数時間の新幹線の旅ののち、駅へむかえに来てくれた母の車に乗りこんでわたしと夫は実家へ向かった(実家にいるのは母だけだ)。わたしたちが家に到着してしばらくすると、京都に住んでいる兄夫婦もやって来た。
兄夫婦とは正直それほど深い付き合いはないものの、こうして実家で顔を合わせたり、帰省できなかった間もあいさつ代わりに2〜3回おいしいものを送りあったりと、ほどよい距離感で付き合っている。

そうしてわたしの母、兄夫婦、わたしと夫という、新しい年を迎えるメンバーがそろった。

◇   ◇   ◇

実家での時間はゆるゆると流れていく。

テレビの前に思い思いの格好でくつろぎながら、そういえば、と誰からともなくぽつぽつと言葉をつむいでいく。兄夫婦が飼っている2匹の猫の話。母とわたしが共通して好きな劇団四季を観劇して、夫が号泣した話。母が最近購入した本の話。
言葉がとぎれるとそれぞれスマホをいじったり、年末特番が放送されているテレビをぼーっとながめたり、お菓子を食べたり。

1日が終わり、母が用意してくれたふかふかの布団の中にもぐり込んだとき、ああ今日も話すべきことを話せなかった、と自分に少し落胆した。
今日も、どうでもいい話で1日が過ぎていってしまった。たわいもない話が悪いわけではない。近況報告ができるし、兄の奥さんの人柄を知り、わたしの夫の人柄を知ってもらうきっかけになるし、なによりみんなで笑い合えている時間は楽しいし。
でも、路傍に転がる石ころではなく、袖の中に隠している宝石に、わたしたちは触れるべきではないのか、というような気がしてならなかった。
明日は何か話さなきゃ…そう思いながら、わたしは夢の中へ落ちていった。

◇   ◇   ◇

実のない話しかしないまま、年が明けた。
あけましておめでとうございます、と少しかしこまって頭を下げてあいさつする。2022年は家族で顔をそろえて、新年をむかえることができた。

「おもち何個食べるん?」「ん〜、2個!」
年明け恒例の掛け合い。食べるおもちの数を申告すると、母がお雑煮を用意してくれる。わたしの実家は、醤油ベースの色が濃いめのお雑煮だ。出汁をとったはまぐりなどの貝類や干ししいたけ、緑が鮮やかなゆでたほうれん草、かわいらしい手毬麩やかまぼこが入っている。
お椀を手に取ると、出汁と醤油が強く香りたつ。この香りをかぐと、年越しの瞬間よりもしみじみと新年の訪れを感じる。

わたしと夫が元日の分厚い新聞広告の束をばらして眺めていると、兄夫婦ももそもそと起きてきて母におもちの申告をし、お雑煮を食べはじめる。母は年賀状の仕分けをしながら「この人はなぁ…」と思い出話をしている。

わたしたち自身は2021年のきのうまでと何も変わらないのに、お正月じみたことをしているわたしたちの間を漂う空気は真新しく、少し清らかな気がする。静かで穏やかな元日の朝の光が、居間を満たしていた。

「そろそろお昼ごはん食べよか?」
母はそう言って、腰をあげた。兄夫婦、わたしと夫もテレビの前から立ち上がり、食事の支度をはじめた。

元日の昼ごはんはおせち。そう決まっている。
我が家のおせちは母の手作り、とはいかないが、毎年知り合いの仕出し料理屋さんにお願いして立派な重を作ってもらっている。近年は、おせちの重箱は一段だけ作ってもらい、お正月のオードブルも頼むようにしていた。
「お米食べるひと〜?」
母の掛け声に手をあげたり、あげなかったりするわたしたち。
「飲む?」
わたしは夫に目配せして、帰省に合わせて購入していた日本酒を用意する。兄夫婦もてきぱきと取り皿や箸を食卓に並べていく。

主役のおせちとオードブルが食卓に運ばれてくる。今年はどんな顔ぶれだろうか、とわくわくしながら蓋を取ると、色鮮やかな料理がにぎやかにひしめき合っていた。嘆息をもらしたのもつかの間、どれから食べようかと、もうわたしの目は品定めをはじめていた。

食卓の準備がととのって、みんながそれぞれの席についた。
「いただきま〜す」と律儀に手を合わせ、昼食がはじまる。
数の子、紅白なます、煮締め、栗きんとんなどおせちの定番料理から、からあげ、エビフライ、ポテトサラダ、スモークサーモンといったオードブルの品々まで。ありとあらゆる食べ物が目の前に並んでいる。お箸を手に持ち様々な顔ぶれとにらめっこして、今年のおせちは何からはじめようかとみんな真剣に考えているのがわかる。

次第に食欲と折り合いをつけ、取り皿にめいめいの食べ物をとってほおばる。わたしはつやつやと神々しく輝く黒豆を口に入れた。しっとりとした舌触りと上品な甘さが口の中に広がる。次は田作り。ぱきぱきとした楽しい食感とほろ苦い味わいがくせになって、地味に好きな一品だ。

夫は自分で調達してきたお酒の味に満足したようで、「まだ飲む?」とわたしのおちょこに日本酒をつぎつつ、おせちをつまんでいる。兄の奥さんはおせちやオードブルの料理を次々開拓し、「これおいしいよ」と食わず嫌いの兄におすすめを指南しながら、さりげなく兄の位置から遠い料理を皿に取り分けている。その様子を見て母は「そろそろ場所、変えよか?」とお重とオードブルの位置を入れ替える。兄のからになった茶碗を見て「ごはん、おかわりする?」とまた声をかける母。

おせちへのびていたわたしの箸がふと、止まった。

年に一回だけのおせちを囲むひとときに、心を許せる人たちが集っている。
ここには、わたしたち家族のぬくもりと安心がある。

同じ料理を口にして、「おいしいね」と言い合える同じ場所にいる。体温と呼吸が感じられる距離で、顔を見て笑い合える。人と人が近づくことがはばかられる時代だからこそ、この距離感は何ものにも変えがたい価値なのだと悟った。

わたしはずっと、普段離れて過ごしている家族と顔を合わせるからには、大事なことを話すべきだと信じこんでいた。たしかに、それが必要になる局面はいつか訪れるだろう。
でも、大袈裟かもしれないけれど、明日がどうなるのかわからない今この瞬間は、みんなが元気でいることを互いの目を見て確認し合えることだけで、心は十分満たされる。

初日の出の光がじわっと地平線ににじむように、心にゆっくりとこみ上げてきたあたたかさが、わたしの懸念をすっぽりと包みこんでいた。

来年も1ヶ月後も、1週間後ですら先の見えない世界で、わたしたち家族は離れて暮らしている。血のつながりで言えばこの世で最も近いのに、体と体の距離をせばめることが簡単にはできないなんて、やるせない。
だからこそ、つかの間でも同じ空気を吸える距離にいられるときを、心から喜べばいい。そこに言葉はなくても大丈夫。

「あ〜お腹いっぱい!」
「そうやね、このへんにしとく?」
めいめいほおをつやつやに光らせながら、いすの背もたれに身を預ける。母はおせちの重とオードブルにふたをして、片付けに取り掛かる。続きはまた次の食事で。

わたしたちが次に集えるのが、いつになるのかはわからない。だから同じおせちを囲めている今という瞬間を、やさしく両手で包み込んで慈しもう。
言葉を交わすよりも大事なことに気づけた、元日の朝だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?