詩人が描いた愛の交響曲〜フレデリック・ショパン〜
3月1日は、ポーランド出身のピアニストであり偉大な作曲家のフレデリック・フランソワ・ショパンが生まれた日。(1810年3月1日または2月22日 - 1849年10月17日)今日クラシック音楽を聴かない人でも夜想曲やワルツなど、ショパンの曲はよく知られている。ピアノの詩人と謳われた。
【生い立ち】
フランス人の父、ニコラと、ポーランドの没落貴族の娘だった湯スティナの間にワルシャワで生まれる。
父ニコラはフルートとヴァイオリンを演奏し、母ユスティナはピアノに長けており、一家で切り盛りしていたエリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていた環境野中、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。
ショパンの曲、人生は、皆様よくご存知だと思うので、ジョルジュ・サンドとの愛をこちらに。
【サンドとの愛】
1836年、ショパンはサンドと出会う。幼いころからピアノの神童としてもてはやされたショパンは、1832年ころからパリで活躍をはじめ、有名になっていた。サンドと出会ったころには、作品を次々と世に出しピアノ教師としての評判も良く、経済的にも豊かで、持ち前のセンスの良さと神経の細かい上品な立ち居ふるまいは、彼を社交界の花形にしていた。
今にも壊れそうなほど華奢でか弱く、洗練された身のこなしの中にどこか寂しさを漂わせたショパンにサンドは惹かれていった。
ポーランドの令嬢と婚約していたショパンだったが、彼女の家族の反対により婚約を破棄され、心に傷を抱えていた。
その後、サンドの猛烈なアタックで、二人は惹かれ合うように。その時、サンドは34歳。ショパンは28歳だった。
サンドは、スペイン領のマヨルカ島、自身の館のあるノアンで、ピアニスト、作曲家としてのショパンを支えていく。が、10年に及ぶ恋愛もショパンの病、息子モーリスの反発、娘ソランジュの結婚問題などでサンドは疲弊していき、ショパンも同様に自身のプライドを守るべく別離する。
が、この10年はショパンにとって実りある期間だった。マヨルカ島に向けて、バルセロナから出港したときの幻想的な穏やかな夜の海は1840年に発表された『夜想曲』になり、ほかにも『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』などショパンを代表する多くの傑作が生まれた。
こちらの絵は、2人の親友だった画家、ウジェーヌ・ドラクロワが描いた2人の絵。今は、半分に分断され、ショパンはルーブル美術館、サンドの部分は、デンマークの個人宅に収蔵されている。
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