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明後日はコロナワクチンを注射(小説)中篇


 その翌日、雅江は仕事中の弟にLineを打った。
 弟は、雅江の緊迫を伝える「すぐ帰ってきて」に引かれて、帰宅した。
 雅江は、隅っこに淀んでいた。
 大事にしている歩行杖を床にうちすて、青白い肉付きの、削げ落ちるところは落ちて能面的に凝固した死人の顔。
 刻んだ彫りが極まった肉付きには変形しきった香のかおりの強い染着があった。

 口のなかは、枯れ枝いろの砂に浸食されていた。
 雅江は、恍惚として床に身を投げ出さんばかりだった。
 


 弟はまず、雅江から話を聞き出した。砂を噛みながら絞りだされる答えはこうだった。
 
 Twitterで、反コロナワクチンを謳うツイートがワクチン推進派とケンカをしあっている連圏に遭遇した。
 
 反ワクチンが勢いに乗り、コッポラの映画『地獄の黙示録』でカーツ大佐がベトナムの子ども達にワクチン注射をほどこしたらどんな事になったか知っているのかと、言い張りをかますと、相手はそれに応えず立ち去っていったので、どういうことがおこったのかが気になった。
 
 ネットで『地獄の黙示録』の映画を観た。映画の中で、カーツによってワクチンを接種された子供たちの、「悪魔のくすりを投与された片腕」がぜんぶ斬り落とされて山積みにされ、よってたかって火を放った。
 
 その火の光が、目に焼き付いて離れなくなった。                 
 
 弟は映画館で『地獄の黙示録』の完全版もそのまえの版も、両方とも観た事があるので、そんなシーンがあったかどうか怪訝の感にうたれたのだが、雅江は話し終えると、襟に首を埋めて硬直し、動かなくなった。
 


(闇)
(蔓草が這う迷宮)
(濁った興奮)
(彫像の振動)



 
 雅江は小説や映画に見入っているうちに入り込んで抜け出せなくなることを、弟は知っていた。
 これまで何十回とやってきたことを、この夜も繰り返した。
 ワインのコルクを あぶったすすで、自分と、雅江の唇のうえに、西洋の史劇映画で海軍の軍人が生やしているような細い髭を書き込んだ。
 冷蔵庫からポカリスエットを取り出し、口移しに雅江に飲ませた。

 
 雅江の目のなかで、口から上がってきた砂が眼球の南半球をおしつぶしていた視界のなかで、
 弟は、ちょっとした空気の動きで黒い炎を揺らす蝋燭の連なりを横切り、雅江の心身におどむ砂の海に、水分をそそぎこんだ。
 弟は、道筋をあかるく照らす声で、深夜にまばゆく映える砂と流星群をうつしだした。
 砂は、足のしたで燃え、光がひろがった。
 雅江は映画でできた牢獄から、弟の導きで脱け出せた。


(ランプの灯)
(ひとすじのなみだ)



 弟の全能像が、オランダ絵画の知的技巧を尽くして描かれた静物画の陰影を拡大させ、その光と翳を纏った気品高い人物画のなかから、弟が話しかけてきた。



(死都 光明がひとすじ)
(ひかりは螺旋状の階段)


 

「Twitterは、ボツの無い雑誌みたいなもので、面白くない記事や、有害な記事がもちこまれても、それを没にする編輯へんしゅう者がいないので、やりたい放題の殴り書きが横行している。その殴り書きが、活字を読んでいるようなワープロ文字の目あたりのなめらかな読みやすさで表示されるのだから、まるで完全版下を読んでいるような幻惑作用が生まれて、本当のことが書かれているかのように信じ込んでしまう。
 手書きの字の癖や、その字にしみこんでいる温かみや冷酷、生臭さのいっさいを防臭してしまうワープロの文字を読まされてるんだよ。読んでいるのではなく」


 弟が自分に、暖かく熱したハチミツ蠟を先端に塗った鉄筆で書きつけるのが雅江には見えた。私の話が、あなたを不快にさせてしまったら、ごめんなさい....雅江が言うと、弟は、ぬけぬけと言い返した。



姉貴は騙されたんだよ...大昔からの常識でね、旅行家が言ったり書いたりする話は、ぜんぶ信じてはいけないんだよ。だから姉貴が読んだのも、そして僕に言ったことも、それはいわば闇の旅行記だ。そんなの僕は信じないよ。さまよえるオランダ人たちの旅行記は、TwitterでもFacebookでも5ちゃんねるでも、大量生産されている。なのに、姉貴はもう...」  



(数千の沈黙)
(森の威厳)



 雅江の唇のなかに居座っていた砂はだんだんと、虹色に膨張し始め、豊穣な香りと旨味になって変容をとめた。雅江はそれを一息にのみほす。軀じゅうの血の先まで、滋養と暖かさがゆきわたった。
 雅江は 闇夜の海から出て岸にあがっていくように、足腰のたたない軀をよじり、鬼畜界から人界へと、本の活字や賛美歌や愛するものへの信頼を照らす、三日月を追いかけていった。
 雅江は床になげだした歩行杖を取り、窓へと、歩いていく。
 黒地に 蒔絵まきえ柄をみやびに ほどこした、弟からの贈り物の杖である。

 窓にたどりつく。
 星と月が、なまめかしいあかるさで、雅江の胸を暖めた。
 世界じゅうの吟遊詩人と姫がみあげる、天使の輪翔の柔らかい弧円。
 



 


 明後日、雅江の左腕に、新型コロナウイルスのワクチンの1回目が、無事に注射された。 

 #equindiuscimmoarivederlestelle
 



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 コロナ禍は、脳の活動を停止させるか、その逆に著しく刺戟する。
   
 辰也は姉の雅江をモデルに、「SNSから愛する人を護る党」の党員義務と、ワクチン接種を推奨する側に身を置いた以上はその責任を果たしたい気持ちを、一篇の、散文詩のような疑似小説に託して、ノートパソコンから自分のブログへと書きつけた。
 そうしてその小説を、今度は小説投稿サイトに、全文のコピーを張り付けた。
 越えて数日後、小説の投稿サイトを見ると辰也の投稿に、好意とともに、威嚇もあからさまに反コロナワクチンの血判状?の写真を掲げる者たちがいた。 
 辰也は、小説の後半の「姉貴は騙されたんだよ...」のうしろを消すと、別のものに差し替えた。その差し替えの下敷きになったのが、以下の文だ。



「姉貴に言いたい。TwitterやInstagramを、スマホでやってはいけないんだよ。小さな画面で見ていると、パソコンの画面のようなおおきさが作ってくれる風通しが利かなくなって、頭に血がのぼりやすくなる。巨視的なものの見方をしていると錯覚してしまって、本来ありもしない迫力に、幻惑されてしまうんだ。その幻惑の正体はたぶん、便利さを便利さだと気が付くことができない、快適さを欲深く求めることへの異常さが日常になっている事だ。
 僕らは子供のころにずっと、俗に言う毒親のしたで暮らし、掘っ立て小屋に住まわされて、その後も、無数の不便と共生させられた。でも住居のことは、そういう不便さは、それが当たり前なんだとわかることができた。マンションがつくりだす人工楽園でできた快適さにびっくりした一方で、幻惑されずに済んだわけだ。なのに、Twitterに幻惑されるなんて、姉貴はもう...」



後篇につづく





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