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新聞記者を辞めることにした①



ずっと憧れていた職業だった。
家族も喜んで、いろんな人に会えて、同年代だと地元のこと、間違いなく一番知っていると胸を張って言える。振り返ってみるとめちゃくちゃ楽しかった。

でも辞める。


理由は色々ありすぎて、聞かれるたびにもしかしたら違う答えになっているかもしれない。

人生で大きな決断ほど、心の中は希望と期待と言い訳と、自分への説得でがんじがらめになる。


新聞社で働いた5年半は、めちゃくちゃ長く感じた。まだ1ヶ月あるから、振り返るにはもったいないけれども。


記者になりたいと思ったきっかけは思い出せない。投票率が下がってることを指摘するニュースで、政治家の人間味が伝われば興味も湧くのでは?と思ったのが多分最も古い理由の記憶。

「パンケーキ好きな菅総理」もそうだが、最近はテレビの選挙速報で好きな俳優とか、食べ物とかのネタで候補者をちょっとイジる構図がウケている。でも投票率は回復の兆しをみせない。

朝日新聞の「天声人語」が好きだった。新聞好きの祖父らに勧められ、一面下段だけは毎日読むようにした。その頃は文章の良し悪しなんて分からなかったけど、とにかく読むようにした。

いつしかニュースで取り上げられていることや新聞記事の内容を、自分が直接見て聞きたいと思うようになっていった。切り取られた一部だけではなく、もっと奥を知りたかった。


記者への思いをより強くしたのは野球との出合いだった。

中学時代の好きな子が野球部だった。きっかけはそんなもの。
なんとか会話のネタを掴もうと、ほかの野球部の男子から色々と聞き出しているうちになぜか県内の中学野球事情にちょっと詳しくなった。
情報収集の甲斐なく、彼とは結局、中学時代は特に付き合うとかはなかった。

高校入学して最初の日、前の席の男子は、後ろ姿が野球部と自称していた。
名簿を見ると当時強かった中学出身。それをネタに話しかけると思いがけず盛り上がり、部活を決める時期になると「マネージャーにならないか」と半ば無理矢理にグラウンドに連れて行かれた。

当時の母校は、夏の大会でも1回勝てればいいぐらいのいわば弱小校。今だから言えるけど、弱いといわれる野球部のこと、ちょっとバカにしてた。


グラウンドには意外な世界が広がっていた。
部員は当時2、3年生だけで50人はいて、きびきびと動く姿は迫力だった。そして初めて近くで見る金属バットのバッティング音に一目惚れした。

弱いチームになんて見えなかった。

帰り道、駅までのまだ不慣れな道のりを歩きながら入部を決めた。もっと知りたい。そう思った。

ルールすらあまり分からなかったけど、知らない世界の扉が開いた気がして、見逃せなかった。


そこでいろんなストーリーに出合った。
鮮やかに結果を出す選手。人一倍努力してるのに、チャンスをもらってもものにできない選手。怪我をして、でも野球がやりたくて、動けなくなって一人悔し泣きをした選手。残された余命をグラウンドで過ごすと決めた選手。


高校野球にずっと携わりたい。そう思っていた。
聞きたい見たいに、伝えたいが加わったのがこの頃だった。もはや私のやりたいことは新聞にしかないと信じた。



多分、夢は口にすると叶う。


最後の夏は、3年間で初めて経験する夏の勝利だった。初めての延長戦。ベッドスライディングした選手がニキビから流血して試合が止まったり、私は飲み物を忘れて熱中症になりかけたりとドタバタだった。汗と涙でシャワー後のようなぐちゃぐちゃの姿で校歌を歌う、友達に見せると100%爆笑される写真が残っている。翌日の新聞の写真ではサヨナラ打を打った選手じゃなくて、駆け寄った控え選手が一番目立っていた。なんとか4回戦までいけたけど、私立にあっけなく負けた。

なんか、私たちらしかった。


負けてもマネージャーは球場運営に駆り出された。
決勝の日、マネージャーとしての最終日。試合後、私は記者室に向かった。いつも廊下で前を通るたびじっと覗いた記者室。その日は覗きに行ったのではない。
入り口の一番近くにいた記者に「どうすれば新聞記者になれますか?」と尋ねた。

緊張からか、取材終わりでしんとしていたことに気づかなかった。記者室に笑い声が渦巻いた。そのとき何を言われたか覚えてない。

けど、自分が発した言葉は自分を奮い立たせるのに十分だった。



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