ストーカーの感想 熱いうちに。

 こんばんは、釘です。
 今日もタルコフスキー映画の感想をつらつらと。第3回目です。
 (余計な独白を省こう。そうしないと世界は崩壊する。)

映画情報

公開日 :1979年(ソ連)
上映時間:161分
原作  :Roadside Picnic(ストルガツキ―兄弟)
ジャンル:SF※

あらすじ

 隕石の落下か、宇宙人の残した痕跡か――。
 地上に忽然と出現した不可解な空間「ゾーン」
 その奥には人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるといわれ、
 そこへの案内人はストーカー(密猟者)と呼ばれた。
 武装した警備隊の厳重な警備をかいくぐり、命がけでゾーン内へ侵入するストーカー、教授、作家の三人。
 「肉牽き機」と呼ばれるパイプなどいくつもの障害を乗り越え、彼らはなんとか「部屋」の入り口までは辿り着くのだが…。
 (パッケージ文引用)

所感

 流れる水と地面に伏せる人。神秘主義の幸福と希望は結局身近な監獄だった。
 あらすじを見るだけでもどこか抽象的だ。
 様々な音と水と荒廃した領域が人から離れた形で生じている。そこに希望はなかった。もしくは、希望を認知する為のシステムだった。
 やはりキリスト的宗教観が大きい。ヨハネの黙示録やルカの福音書からこの世界から希望が失われ続けることが危惧され、流れる水と発狂めいた恍惚を浮かべるストーカーが苦しみの後に生まれる希望を提示する。SFと銘打ってあるものの、神が失われた世界と宇宙への転回は基本的には同値なのであると僕は感じた。(ジャンルに※印をつけたのは、そういった個人的な感覚があったからだ。)
 僕は原作小説(Roadside Picnic)は読んだことはないけれど、この映画自体はSFらしさは感じられなかった。どちらかと言えば、不可思議なものや、天啓めいた雰囲気を成して超常的な場が奇蹟を生んでいる。そんな風に表現されている。
 「ゾーン」には希望があり、そこへ至る道のりには苦役がある。

 望んでいるものが得られる、といえば惑星ソラリスも似たように、求めていた人と出会える映画だった。こちらは宗教的要素も多く、どこか感覚的だ。
 最初に描かれるストーカーの灰色の生活は色が無い。彼にはゾーンしかなかった。人生に辟易する作家と何かを抱える教授。ほとんど人物の名前が語られない。彼らは概念的で、この世界に満ちる科学技術、厭世観、数々の人間が積み重ねて来たものらの象徴だった。
 信じることを止めてしまった人々と、信じることと希望を他人に伝道する者があり、許しを得るプロセスが成される。包帯を巻いたナットを投げるのも「肉挽き機」も超常的理解と儀式にほかならない。
 ようやく理解に至るが、それは私たちの希望は幸福から離れている。妻もストーカーもそれを分かっていた。

 君のまつげの下に輝く
 愁いを含み ほの暗い 欲望の炎を

 苦しみと小さな幸せの振動が続くから希望があり、停滞せずに生を続けられる。柔らかいものが生なのだから、


 ちなみにS.T.A.L.K.E.R.というゲームがあるが、こちらはチェルノブイリ原発事故を題材にしたゲームで、この映画と小説から影響を受けているのはプレイすれば多分に感じられる。
 この映画と小説は原発事故の前の作品だからゾーンを行き来するストーカーの子供に奇形が生じやすいというのは、事故から想像したものでないということだけ記載しておく。

 古い映画だからかなのか、理由は分からないが日本語訳の字幕は少し不十分に感じた。子供の名前がモンキーだからって「お猿」と訳すのはどうなんだろう。ロシア語なので英語のように聞いて理解するのも難易度が高めだけれど、雰囲気と少しずれた感じは拭えない。(ロシア語勉強しないと。)

雑記

 黙示録と福音書。
 作家も教授も疑ってばかりで信じようとしない。振動させ続けなさい。柔らかいものは生きている。堅いものは死んでいる。
 ゾーンの外は私にとってどこも監獄のようなものだ。そこにある沢山のもの、そこではどうしようもなく身動きの取れないストーカー。

私がみていると、大地震が起こって、太陽は毛織の粗布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落とされるように、地に落ちた。
天は巻き物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはほら穴や山の岩かげに身をかくした。そして、山と岩とに向かって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」
ヨハネの黙示録6章

 なにかが決定的に損なわれてしまうような、流れと様々なものの水没はどこか「ゾーン」に疑いを抱き、現実とそこから外れた規則が提示されれば現実を選ぶ。そこには幸福も希望もなかった。
 疑わずに信じる。そうしたものが神の失われた世界には足りていないのだ。これまでタルコフスキー映画を3本見たが、それら全てに感じられるものは、そうした宗教的感覚だ。
 作家は神や妖精を求めていたが、現実との乖離を知り、酒と猜疑に塗れる。神秘など、奇跡など有り得ぬ。ゾーンに希望など有るわけがないと手順を無視する。
 この世界がただそうあるというだけで、私たちはさまよえるユダヤ人なのだろうか、永遠に世界をさまようのは永劫回帰か。
 ただ、それだけでは足りない。

 この世界の有り様は物質の奴隷で、数値を背負い歩く罪人のように感じてしまう。苦しみなきところに幸福はなく、ありもしない希望にすがる。

 現実も宗教も、どちらにしても人間から生まれ、人間たちの中で死んでいく。どちらも堅い。柔らかさを失いつつある。
 その中で尋常でいられる。その自信はあまりない。

それではまた次回

釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。