惑星ソラリス 熱いうちに。

 こんばんは、釘です。今日はタルコフスキー映画感想第四弾。
 とはいえ、リメイク版は観た惑星ソラリスの感想です。

映画情報

公開日 :1972年(ソ連)
上映時間:166分
原作  :ソラリスの陽のもとに(スタニスワフ・レム)
ジャンル:SF
その他:1972年カンヌ国際映画祭審査員特別賞

あらすじ

 霧と海で覆われた惑星ソラリス。その中で蠢く泥は人間の記憶を読み取り、形を作る。研究価値があるのか、報告は事実なのか錯乱なのか、心理学者のクリスは宇宙ステーションへ向かい、研究者とコンタクトを取ることとなる。そこで友人でもあった物理学者のギバリャンが死んだことを告げられて・・・

所感

❝これは幻覚などではない。
良心の問題なのだ。❞

 人が望んだ記憶を呼び戻し、過去が、憧憬が繰り返される。それらは徐々に成長する。出口が見えない人間らしさと、記憶を持つ模倣の何か。それを愛するのは、苦しみだ。人が持つ根本的なものは苦しいのだ。いかに記憶を再現してもそれらが終わっているのであれば、その本質は永劫回帰のような形を取る。恥の意識は水没を続ける(又は海から隆起した)ソラリスの実家にもたらされた。

 愛は有害か?
 そもそも人類を愛することが出来ない。

 映画による小説のかみ砕き。人の機微や超常的な物へのイメージはリメイク版とは大きく違い、場として表現してある。時代と共にパっとしたものの分かりやすさが研究されて見せやすくなったんだなと思った。と同時に、場として、時間の流れを意識した映像の見せ方は様々な意識を去来させる。
 クリスを取り巻く生活と家族の関係、別れは特別でないほうがいい。惑星ソラリスへ向かってしまえばもう両親に会えなくなる。人の営みと科学、見たものの記憶と記録は違っていた。
 未来都市として出て来る東京高速。もう置いてかれてしまったのがSFだった。そこに既視感はある。SFは地続きの世界だ。決してファンタジーなんかじゃない。僕らは想像できる全ての現実のものとする。
 70年代のSFだから、謎の基盤とかランプ、コードやチューブがある。その時あるもので未来を考えるから、そこに歴史を感じる。技術は想像力を形にするけれども、人間的なテーマは時間に耐え得る。
 サクリファイスにも出ていた、❝母❞が汚れた手を洗い流してくれる描写は宗教観からのものだろうか。汚れは恥で、それは注がれ、洗われた。記憶によって造られる世界に見いだされる新しい奇蹟。跪き父の腰を抱いたときの了解で締められる。記憶の世界が生まれ、人間であろうとする良心が生じた。記憶は科学ではなく、技術はあり得ない。営みなんだと感じた。
 ここまではBDに付いている作品解説の前に思ったこと。解説ブックレットが付いていたので、そちらを読んで改めて思うことも次に書いておく。

解説との距離

 はっぴいえんどで僕の中ではお馴染みになっている細野晴臣さんと、スラヴ文学者の沼野充義さんが書いている。こちらも非常に面白い。特に予備知識もなく僕は感じたままを書いているが、それらはぼんやりとしてしまう。

 内面への宇宙の旅。2001年宇宙の旅と比較するまでもなく、僕はこの細野さんの言葉を見て納得してしまった。
 時代背景を考えれば、米ソの宇宙開発競争、窮屈なSFはスプートニクだ。タルコフスキーがSFを好んでないことを知って、合点がいく。SF小説を原作としているが、表現したいものは技術じゃない。ファンタジーの中にあるのは作者の心情だから、それらは無際限に外側への拡大を続ける僕らと方向が違っていた。生活と宗教観が唯物的なものから彼が抱えるものが描き出される。だから、内面に進んでいくんだ。

 小説との対比、ロシアとポーランドの関係を含め、傑出した表現者の二人が描こうとしたものの違いから沼野さんはこのソラリスを見ていた。
 映画ではSF的なものに本質的な意味を見出していなかった。それは見れば一目瞭然だ。小説は宇宙ステーションから始まり、映画はクリスの生活から描かれているから。僕は残念ながら原作を読んでいないので(今は)一方からしか見ることは出来ないけれど、小説から乖離したコンセプトでレムからの「お前は馬鹿だ」を引き出したのは、どちらも自身の内面、表現の強さがあったからだと思う。(この記事を書いている最中にすぐに本は注文した。僕はそれほどSFに詳しくはない。)
 人間を超えたものと、そこへ還っていくもの、この二つが決定的な違いだろう。SFというものが人間の限界、知性から越えた所を想像させ、人の在り方を問う。または人間が失いつつあるもの、疑いによって純粋さを失い、生活が乱れていく。SFは人間が持っていたもの、個人の感性の内奥にあった純粋なものを再度見出す為に、人間の生活に還らなきゃならない。

 そのどちらにある強烈なものがこれらの作品に表出していると思う。だから、小説も読んで何かを感じなければ。

 今日はここまで。タルコフスキーの映画は恐らく折に触れてまた見ると思う。名作かどうか、そういったことは関係なく、思いを馳せることが出来る作品が個人に響く。(何も考えずに楽しめる映画の方が、徐々に擦り減る人生にとっては必要だけれども。)

それでは。

釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。