見出し画像

【小説】秘密の花園 改訂版 第二話


 化け物がいる。トリはそう思った。身体を少しも動かすことができずに、鳩の姿をした老人の鋭く鈍い視線を浴びたあとには意識さえ遠のいていくように感じた。
 グッと力を入れ握りしめたトリの手のひらから血が滴り落ちていく。爪は尖り、肉に食い込み、それはまるで目の前にいる老人の羽の生えた皺だらけの手と同じように見えた。
 トリは手紙を握りしめたまま身動きが取れなくなり、その場に立ち尽くしていた。身体は次第に固まり、氷のように冷たくなっていく。
 「トリ!」
 姉の声で我に返り、辺りを見回してみると鳩の姿をした老人がカウンター越しにこちらを見ている外はそこには誰もいなかった。姉の声はただ空中にこだまする。
 「マコ!?どこにいるの?」
 「その手紙を渡すのよ!早く!」
 トリの心臓の音が壁から壁へと伝わり、ドクドクドク、ドクドクドクドクと次第に大きくなっていく。
 老人はトリに言った。
 「うるさいな、君は。少し落ち着いて話したらどうだね」
 「マコをどこに隠したの!!?」
 「うるさい!!黙れと言っているのが分からんのか!」
 鳩の体は真っ黒な液体となり、液体は肉体から離れ、床を伝ってトリの指に肌にと襲いかかる。生ぬるく、ぬめった液体が体に触れるとトリはびっくりして思わず握っていた手紙を床に落としてしまった。
 慌てて拾おうと腰を屈めたが、手紙はするりと床の上に広がる液体に飲み込まれていった。
 液体に触れた手紙は封が勝手にピリピリとめくれ開き、中からは老人の体から溢れ出したものと同じ、ぬるぬるとした黒い液体が溢れ出した。
 その液体はゆっくりと渦を巻き、宙に浮き、物体となる。そして静かに床に落ちた。
 「ああ、助かった。ありがとう」
 床の上に現れたのは人間の頭だった。目を閉じ、静かに息をしている体温のある人間の頭。
 その頭を、鳩の姿をした老人は自分の頭にそっと乗せた。 
 ゆっくりと開いた目は優しい顔をしていて、トリは目の前で起きたことを理解することができなかった。
 杖をついた老人はさっき見た鳩と同じ人間なんだろうか。いや、さっきまでそこにいたのは人間ではなかった。トリが見ていたのは鳩の姿をした化け物である。
 だが今そこにいるのは全く異なった、首を傾げる時に少しだけ寂しい表情を見せる、どこにでもいる優しい顔をした「おじいさん」でしかない。
 「おじいさんはさっきの鳩なの?」
 トリがそう言うと、老人はトリの手をそっと握り、頭を軽く撫でた。皺くちゃなその手は温かく悲しかった。
 トリにはおじいさんが泣いているように見えた。本当に鳩だとしたら…もし何かが原因で鳩の姿に変えられていたとしたら、人間に戻れたことは嬉しいはずなのに老人は人間に戻れたことを嬉しく思わないのだろうか。
 それともトリが今まで見たものはすべて幻でしかなかったのか。
 「さあさあ、行こう。お嬢ちゃん」
 「どこへ行くの?手紙を無くしてしまったわ」
 そこは夜の町。さっきまで降っていた雨は上がっていた。
  「宵町月乃一丁目だよ」
 温かい風がトリと老人を包みこみ、老人の視線のその先には見えるはずもない虹が、暗闇の中で七色に輝いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?