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研究者からピュアを取り出してみる

大学で研究していた頃,頭が良いことはそんなに大事じゃないと,めちゃくちゃ頭が良くて偉い先生に言われたことがある。頭の良いごく一部の人しか成功できないわけではないと言われたのだから,凡百の我々にも希望があると喜ぶべきところだ。しかし,言っている当の本人が,少なくとも私が会ったことのある人たちの中では飛び抜けて頭の回転が速く,つねに正確な理屈を口にする人だったので,著しく説得力に欠けた。しかし,おそらくその先生が言いたかったのは,「数学や理論物理のように天才的な知能が要るわけじゃない。生物学や医学は,秀才も含めた凡人による学問だ」ということだと思う。

別の先生には「手が動くやつは何とかなる」と言われた。実験をすることを指して「手を動かす」という。ちなみに,デスクに座って論文を読んだりプレゼン資料を作る仕事は「手を動かす」範囲に入らない。実験科学の(保守的な)価値観を示す言い回しでもある。ともあれこれは,たとえ行き当たりばったりの実験を繰り返していたとしても,日々実験台の前に座って実験を繰り返している人間であれば,周囲からの指導や,本人の学習によって修正できるが,実験しない人間に可能性はないという意見だ。本当にその通りなのだけれど,生まれつき面倒臭がり屋の自分は,この言葉が真実であると分かるほどに絶望していった。世の中のほとんどの仕事がそうであるように,中途半端な才能は努力や情熱に勝てない。

しかし同時に,アカデミアの研究者,特に年代が上の先生方の中には,やっきになって努力をしているように見えない人たちがいた。今ではすっかり見かけなくなったが,飄々としていて,労働(実験)に勤しむ姿を想像しづらい先生方だ。私が研究を始めた2000年代初頭にはまだいらっしゃった。裏ではめちゃくちゃ努力している,あるいは,若い頃はすさまじい量の実験をこなしていた可能性はある。可能性というより,脇目も振らずに集中していた時期があるのは間違いない。しかし労働そのものを尊いとは思っていない印象を受けた。

いわゆる研究者像の類は,他にもいくつか存在すると思う。私は不遜にも,半ば無意識のうちに研究者を以下のタイプに分けている。

- 教養人
- 奉職者
- 職人
- 起業家

人間観察といえば意地悪だけれど,人によってどうしてこうも研究に対する姿勢が違うのかよくわからなかったのでぼんやりと考え続けた結果,だと思ってほしい。

教養人は上記のごとく,勤勉さよりも好奇心を優先し,世俗的な利益や権力を重視しない。自分が不思議に感じたり興味を抱いたことを知りたいから研究に携わっている。

奉職者は,自分の仕える教授や研究分野,アカデミア,社会の発展のために身を粉にして働くことを美徳とするタイプである。しばしば取り組んでいる課題に興味を抱いていない。

職人は,手を動かすこと自体を喜びにしているタイプである。奉職者と同じく身を粉にして働くが,科学や社会に貢献することを第一義においていない。それはあくまでも結果的にそうなっているだけで本人にとっては副次的な要素である。一つのことを続けている人が多い。

起業家は,ビジネスパーソン的な性質を持っている人である。多くの場合,アカデミアでは独立して研究室を持たないとそのうち追い出されてしまう。自分の関心・興味が根底にありつつ,より現実的で,より効率的に業績の出せるテーマを選び,直線的に仕事を進める。コミュニティ内にうまくポジションを取ることや,予算獲得に知恵と労力を割く。ビジネスとの違いは,経済的な利益を目標や指針にしているか,論文などの研究業績をアウトプットにしているかの違いである。

ちなみにどのタイプがアカデミアの研究者にふさわしい,あるいは,優れているといった話をしたいわけではない。多様性が,アカデミアの繁栄の最終的な決め手になると個人的には信じている。理想は上記のタイプがバランス良く存在することだ。とはいえ,互いが仲良く共存できるとはかぎらない。むしろ,相容れない考え方をしている研究者同士が切磋琢磨している方が健全かもしれない。環境要因によって,これらの多様性が失われないことが大切だと思う。と,一般論を書いた上で,教養人と起業家は同じ研究者同士でも互いに互いのことが大嫌いである。これは是とするものが真逆なのだから必然的な結果だ。良い研究をした結果,一流の学術雑誌に掲載されると考えるのが前者である。もっといえば,全ての研究が正しく評価されるわけではないので,一流の雑誌に掲載されることは,その研究に対する評価の一部にしか過ぎないと考えている。芥川賞は純文学作品を評価する方法の一つではあるが,それが全てではないという理屈と同じだ。つまり基礎研究を,芸術などと同じく非即物的な価値のある人間活動と捉えている。一方,起業家は,一流誌に掲載された研究が良い研究だと考える。なぜなら,それが最も説得力のある評価方法であり,研究予算獲得やキャリアアップにつながるからだ。

面白いことに,ほとんどの場合一人の研究者が複数の属性を持っている。そうじゃないと生き残りにくいので生存者バイアスとしてそうなっているのかもしれない。だから,研究の価値は掲載誌では決まらないと普段は言っている先生がいざ論文を投稿する段になると,格の高い雑誌に載せるべく手練手管を発揮し始める。よく考えれば矛盾するこれらの行為は,素晴らしく人間的だ。しかし,下の人間からしたら二重人格に見えるかもしれない。

今や,純粋な教養人タイプの研究者は絶滅危惧種だ。生物学が実験科学であることと関係しているのかもしれない。技術の進歩とともに登場した高額な実験機器は,最先端の科学の多くに欠かせない。つまり昔に比べて高額の予算を獲得できないと新しい研究を進めにくくなっている。教養や知識,アイデア,コンセプトの価値が相対的に低くなり,いかに機器を揃えて効率的に実験を進めるかが鍵になりつつある。分野をまたぐ技術も増えてきたので,一つの研究室で論文に必要なデータを出すことも難しい。複数の研究室でコラボレーションする際に必要なコネクション作りであったり,研究室間で,それぞれの優先すべきテーマや(アカデミックな)利益を調整する能力も重要になってきた。依然,企業に比べたら牧歌的なのかもしれないが,起業家的な能力が求められているのは間違いない。

神経科学は特に,他分野からの人や技術の流入が多い。課題が複雑で,かつ,今まさにホットな分野だからだ。そういう事情から,神経科学に携わる研究者には起業家的な能力が求められているのだろうなと想像している。分野に関わらず,研究室を運営しながら研究の最前線で活躍している研究者の方々は,実験もできてプレゼンもうまい。研究やキャリアも戦略的で,おまけにコミュニケーション能力が高い。こうした,より現実的な能力が求められる状況にあると知った上でカンデル神経科学を読むとまた違った味わいがある。人間の活動は,ビジネスであれ芸術であれ科学であれ,現実的な側面とはまた別にピュアな好奇心や知性の発露を感じさせてくれることがある。自然科学の教科書は,研究者たちから滴るピュアな部分を集めたものだと思う。

2022.9.11  牧野 曜(twitter: @yoh0702)