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教科書は脳の中にフォルダを作る           ── 大隅典子

大隅典子 東北大学大学院医学系研究科 教授


『カンデル神経科学 第2版』(原書第 6 版)の日本語版を制作するにあたり,今回も「神経発生」を扱うPart Ⅶ の監訳を担当させていただき,ありがたいと思っています。改めてこの Part を一通り読み直して,この研究分野の 8 年間における進展を振り返ることができ,楽しく監訳させていただきました。

 初版発行から現在に至るこの 8 年間に自分自身の研究が進展したことによって,読み直しを通じて新しく発見できたこともありました。また,私自身は今,脳の性差に着目した研究を始めたところなのですが,「神経系の性分化」の章を読んだときには,この分野の前提を再確認できて勉強になりました。一方で,ここに書かれていることの中には,まだ手がつけられていない面白いところがあるんだなということにも気づきました。

良い教科書は古びない


 教科書の良さの 1 つは,いつまでたっても古びないということですね。その理由の 1 つは,改訂がきちんと続けられているということです。私は東北大学の医学部の学生に毎年発生学を教えていますが,教科書として用いている『ラングマン人体発生学』は,11 版を重ねるロングセラーです。数年ごとに改訂されるこの教科書を毎年読み直しながら,ここはまだなかなか解明が進まないところだなとか,ここは最近急激に発展しているなとか,そういったことを感じることができるのです。著者の代替わりをも乗り越えて長く続くということ,教科書に望まれる大事さの1つだと思います。

脳の中にフォルダを作る

 
 もう1つ強調したい教科書の大事さは,教科書が脳の中にフォルダやサブフォルダを作るということです。『カンデル神経科学 第2版』の場合,全部で 64 章あり,それが 9 つの Part に分かれています。神経科学全体を理解するということは,初心者にとっては途方もないことに思えるでしょうが,そのときに教科書というものが,全体を見渡すための道標を作ってくれるのです。

  例えば『地球の歩き方』*の本ではないですが,その地域の全体がどうなっていて,どんなふうに歩けば,その街全体を見渡すことができるのか,その時に著者が考える一番効率の良い歩き方,一番合理的な道順を示してくれるのが教科書なんです。そして教科書を読むことによって,全体を見渡すための目印(道標)がいろいろなところに置かれていくのです。

 私たちは,街を歩きながら,ああこの道の右側にこんなお店があった,何丁目の角のところには花屋さんがあって,その隣にはパン屋さんがあったというようにその順番で記憶していきます。お店が順番に並んでいるというのが,ある程度頭の中に区分けを作り,頭の中を整理をするための,大事な目印になると思います。目印を作ることを別な言い方で表すと,脳の中にフォルダを作る,サブフォルダを作る,そういうことだと思うのです。

脳の中を検索できる


 
頭の中がフォルダに分かれていて,フォルダレベルのレイヤーで何かタグ,名前がついているとする。すると,新しい知識が入ってきたときに,「あっ,この情報はこのタグがついているフォルダに仕分ければいいね」ということが瞬時に判別できると思うのです。でも,教科書を読んでいないとどうなるかというと,新しい知識が単に時間軸に沿ってたまるだけで,雑多な情報がごちゃまぜのまま,すごく大きなフォルダの中に入ってしまう。このような状態ですと,そこから何かを取り出したいと思っても,すごく難しいかもしれない。コンピュータならば,どんな検索でも瞬時に見つけ出してくれますが,人間の脳はそうはいきません。

 でも,脳の中が名前のついたフォルダで仕分けられていれば,何かを検索しようと思ったときにはそのフォルダを見ればよいということになります。

知識が整理される


 フォルダを「引き出し」と言い換えてもよいかもしれません。脳の中に整然と並んだ引き出しがあって,この引き出しの何番目には何が入ってるというのがわかっていれば,そこから情報を引き出せる。また新しい知識は,前に覚えた何かの知識に近いから,それと同じ引き出しに入れようということができる。このような脳の中の引き出しは,新たな研究のヒントを得たり,クリエイティブなアイデアを生み出したりしようとしたときに,非常に重要だと思うのです。

 話を聞いているときにメモをとらない学生さんがいるとき,「あなたたちメモを取らないけど,後で検索すればいいやと思ってるでしょ」と私はいつも言っています。もちろん私自身だって,検索しまくって生きていますし,Googleなしでは生きられません。けれども,本当のクリエイティブなアイデアっていうのは,自分の脳の中でしか生まれないのです。

フォルダを横断してアイデアが生まれる


 
将来はAIとアイデアで競うような時代になるかもしれませんが,今のところは,本当に面白いアイデアというものは,やはり人間の頭の中から生まれています。自分の脳の中の,あるフォルダに入っているある知識と,別のところにあるフォルダの中の何かが,たまたま,ふっと何かの拍子に浮かんできて,それらが合体して生まれる,ということだと思うのですね。

 ちょっと前に流行った 「I have a pen. I have an apple.」という動画がありましたよね。2 つが合わさって,「Apple-Pen”」になる,あれです。学生さんには,「先生,それはもう古いです」と言われるのですけれど,とても良い比喩なんです。クリエイティブなアイディアっていうのは,何もないところから生まれるのではなくて,今まで結びついていなかった何かと何かが,これを結び付けたら新しいのではないか,と気づくところから始まるのです。

教科書を読む


 なので,そういうことがしやすい脳を作るために,教科書を端から端まで読む,仮に理解できなかったところがあったとしても,できればその教科書の章の順番に沿って,一通り読んでいくことが,ある意味王道であり,ある意味一番近道なのではないかな,と思います。ですので,神経科学は,『カンデル神経科学 第2版』ですと 64 章あるというとてつもなく広い広い世界ではありますが,興味を持った人がこれを一通り,その端から読んでみようと思ってチャレンジして,脳科学全体,神経科学全体を理解していただいて,その上で自分の研究するところを掘り下げ,深めていっていただけたらと思っています。

聞き手:藤川良子 

*『地球の歩き方』 株式会社地球の歩き方発行の旅行ガイドブック。1979 年の創刊以来,100 冊以上のタイトルがある。