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マス広告の効果や使われ方は、“運用型”になって本当に“新しく”なったのだろうか? 〜私には車輪の再発明のように聞こえてしまう。

※この文章は特定のサービスや特定の人物を指しているものではなく、ある“界隈”の話として、ずっとモヤモヤしていたことについて、一度くらい書いておきたいと思って書いています。

スタートアップ界隈で、運用型TVCMってのが出てきて、で、その説明をするときに、「これまでTVCMではちゃんとした効果測定がされてこなかった」とか、「売上に貢献する効果が見えにくかった」とか、「ブランディング中心で、ダイレクトには弱かった」みたいな話が、まことしやかに語られたり、書かれたりしてるのを見ることがある。

※あと、「効果がわかります」というときの“効果”が何を指しているかとか、また、効果がわかるとしても、単価が実は結構高いのだという話を表に出さないのは、正直ズルいと思うなあ。

昔からTVCMとかのメディアプランを作ってたり、ブランディングもダイレクトもやっていた経験からすると、そういった”言説”を聞くと、「歴史を捻じ曲げんでくれ」とか、「自分たちが知らないだけで、どうして以前からやっていた人がいるかもしれない、とか思わんのかな?」とか思ってしまって、なんだかな〜て気分になる。

例えば、伝説的な本田技研の昔のWebマスター氏は、「TVCMの効果はホームページの来訪を見ていればわかる」とか200X年ぐらいには言っていたし、DMの投下時期に最適なTVCMの投下パターンをプランしていたり、マス広告の投下のタイミングと細かくクリエイティブの分析を多変量解析してPDCA回していたり、クリエイティブごとに電話番号変えて反響率を把握してその先にプランに活かしたり、ということで昔からマス広告の効果。クリエイティブの分析、それらのPDCAということは行われてきていた。

そういうことを実際にプレイヤーとしてやってきていたり、周囲で実施してきた人々を目にしてきてると、今起きてることはそういう“作業”が「楽になった」だけであって、「新たな発明」ではない。

むしろ汗を書く必要、手間をかける必要が以前よりもなくなったことが最大のメリット。

それを”新しい”やり方のように語られてるのを見ると、「なるほど車輪の再発明」というようにしか聞こえないのだ。

車輪の再発明(しゃりんのさいはつめい、英: reinventing the wheel)とは、「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を(知らずに、または意図的に無視して)再び一から作ること」を指すための慣用句。

車輪の再発明 - Wikipediaより

Cambridgeの辞書では「誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして時間を無駄にすること」といった解説を掲載している。

車輪の再発明 - Wikipediaより

一般的には、古くからタダで皆に使われている技術や技法があるのなら、それをそっくりそのまま模倣して使えば、ほとんど時間もかからず労力もほとんど使わずに済む。それなのに、わざわざまた自分でゼロからアイディアを練る段階から始めていては、時間・労力・コストなどの無駄なので、「車輪の再発明」は基本的には、時間の無駄、愚かなこと、ばかばかしいこと、というニュアンスで用いられている。

車輪の再発明 - Wikipediaより

というわけで、例えば先人がどのようにマス広告と格闘してきたか、しかもそれはTVCMの黎明期にはすでにあったのだよ、ということを知るためにこの本、『広告主アドマン春秋』を読んでみてほしいと思う。ただ、Amazonにもないので入手困難なのだけれど。でも読むことで得られる学びは相当有ると思います。

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その他にも「DAGMAR」というセオリーが存在するのも、その名の通り、目標による広告管理を行うからである。これが最近の運用型TVCMと呼ばれるものと違うのは、「マーケティング目標」を設定し、そのために「広告をどう使うか?」という実践という点である。一方の運用型広告の場合は、コンバージョンにあたる部分など「広告をすることで何が得られるか」となっており、スタート地点が実は逆なのである。ともすれば後者は広告の使い方を非常に狭めてしまうので、広告の可能性を非常に制限してしまいがちだと思う。

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しかしホント不思議なのは、なぜ上のようなことを言う人達は、歴史や先人から学ぼうとしないのか。

インターネットの世界からスタートしてしまうと、過去のマーケティングとは不連続で、学ぶことはないとでも思ってしまうのだろうか?


知らないことは罪ではない。
知ろうとしないことが罪なのだ。

↑コレ結局誰の言葉なのだろう

知らないのは恥ではない。
知ろうとしないのが恥である。

澤柳政太郎(東北大学初代総長・成城学園創設者)の言葉がこれ。これが転じて↑になったのかな?

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