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ステルラハイツ6388

 この街の夏は短く、あっという間に朝晩の冷え込みから次の季節を意識するようになる。

 たまこはまた洗濯物を干していた。今朝は寒さでいつもより早く目を覚ますと、隣で眠っている其奴に掛け布団をほぼ奪われていた。窓の外ではちょうど雲ひとつない空に太陽が昇り明るくなり出した頃で、そのまま起きて掃除や洗濯を始めることにした。いつも通り女物のカラフルな服や下着に加えて、いつの間にか見覚えのある男物のトランクスとTシャツが紛れ込んでいる。彼奴のものだ。たまこはこんな時に少しだけ苛立ちを覚える。

 ダリアが出て行ってから、其奴は頻繁にステルラハイツに来るようになった。たまこに会いにくるだけではない。なんと其奴はワンさんに変わってミミ子の麻雀大会に立ち会うようになったのだ。


 ワンさんがいなくなって元気のないまま、ミミ子はほとんど部屋に引きこもっていた。

 トレードマークのクマの着ぐるみで時々リビングに顔を出すも、あれだけいつでも饒舌だったミミ子はほとんど口もきかずにいた。たまことJINちゃんはあの日にワンさんとの間で何があったかミミ子から聞いていたから、それ以上は口を挟むこともないと暗黙の了解で放っておくことにしていたし、JINちゃんは大きな舞台の仕事が始まってこのところ家を留守にすることが多かった。

 そんな中で其奴は、ミミ子に出くわすと何かと世話を焼き、話を聞きたがった。少なくともたまこにはそう見えた。一度そのことでたまこと其奴は軽くぶつかった。その日もリビングに現れたミミ子に何かとまとわりついていた其奴を見て、後になってたまこが「放っておきなよ」とだけ言うと、其奴は珍しく強い口調で「放っておけません」と答えた。

「ミミ子さん、あんなんじゃないから。」

 たまこは、其奴の言葉に苛立つ自分を、的外れだとなだめる。ただ自分はそうしないと強く思い、其奴を睨みつけてそっぽを向くと、

「たまこちゃん、もしかして焼きもち妬いてる。」

 其奴はコロッと口調を変えてたまこをからかったので、たまこはますます苛立って、目の前にあったクッションを其奴に向かって投げつけた。其奴がまだからかうように「やめてー」などと言うのでムシャクシャして手当たり次第に物を投げた。始めは面白がっていた其奴も、額にゴツッと固い物が当たると反射的に「痛えな」と声を荒げた。それでたまこも「ごめん」と言って手を止めた。其奴の額には血が滲み、傍には円柱形のキャンドルが転がっていた。
 

 ミミ子に向かって麻雀の話を出したのは其奴の方だった。

「ミミ子さん、最近は麻雀しないの。」

 ワンさんの存在を彷彿とさせる話題に、それを聞いたたまこは思わず動きを止めた。たまこの作ったスープをすすっていたミミ子も、一瞬その動きを止めた。そして一呼吸おくと、久しぶりに目を光らせてミミ子は意外な言葉を口にした。

「あんた、立ち会ってくれる?」


 ゆうべもミミ子の麻雀大会が開かれた。其奴はミミ子の傍らに立ち、ミミ子は顧客と勝負をした。麻雀大会が復活して、ミミ子は完全に元気を取り戻したように見えた。

 たまこはいつものように我関せず、紫の部屋の盛り上がりをよそにベッドに入るが何となく寝付きは悪い。それでもいつしか心地よい眠りへと沈みこんでいく最中、不意に身体を這う其奴の手の動きに、半分目を覚ますことになる。


 麻雀大会が終わると其奴はたまこの部屋へと入る。

 ミミ子の麻雀に初めて立ち会った時、終わった直後のいつにない興奮状態に其奴は自分自身驚いていた。それは感電しているとも言える状態で、其奴は無意識にそれを鎮めようとするがごとく、たまこの身体を求めた。

 其奴の手の動きはそれまでと違っていた。興奮していながらあくまでも静かに探るように指先が動く。その指のタッチひとつひとつに静かな力が漲っていた。触れられたたまこはハッと目を覚まし、そしてすぐにまた、まどろみの中に引き戻される。其奴の指が触れていく一筋一筋に、らせんを描くように細かな振動が伝わり、身体はその指に触れられたいと言わんばかりに持ち上がり、張りつめながら緩みながら、自然と声が漏れる。

 たまこもまた感電していた。久々に、また自分の知らない領域へと昇りつめているのがわかった。其奴の手はそれを感じて楽しむように動き出す。二人は、言葉にならない声を交わしながら、新たな感覚へと身を任せ、身体が動くままに繋がり、大きくうねる波を迎える。その波はしばらくの間、身体を震わしていた。そのまま眠りに落ちた後も、その興奮は続いていた。


 たまこは最近立て続けにおかしな夢を見る。それは自分が夢の中に居る、という夢だ。夢の中の自分は、それに気付くとなぜだか怖くなって夢の中から逃げ出したくなる。また、夢を見ているのは自分なのに、なぜか他の人の夢を見ている感じがするということもある。目が覚めた後もしばらく自分がそこに居る感覚がない。日中も時々ぼんやりと思いを巡らしているようなことが増えた。

 其奴の方は一旦眠ってしまえば違和感はなくなるようだった。何事もなかったように消えてはまた現れ、ミミ子の麻雀に立ち会って、たまこと身体を重ねる。
 たまこはこのところ、其奴と身体を交じらわすことを、待ち望んでいる自分と恐れている自分がいることを明らかに感じていた。


 何に苛立っているのか、それはそんな中でも従順に日々の仕事をこなす自分に対して苛立っているのかもしれない。たまこは縞柄のトランクスを放り投げようとして、やめる。トランクスに罪はない。たとえトランクスに罪があろうと、それはわたしが暴いたり引き受けたりすることではない。トランクスの問題だ。ピンと張った紐に洗濯バサミを使って次々と洗濯物を干していく。

「おはよーたまこ、何をぶつぶつつぶやいてるの?」

 眠そうな顔でJINちゃんが起きてきた。たまこはまた知らない間に思考の隙間に入り込んでいたようだ。それも無意識のうちに口で何事かをぶつぶつとつぶやきながら。危ない危ない、と自分で自分の頬をぴしゃりと叩く。

「なんかさー、あの子すっかりここに居着いちゃったね。」

 JINちゃんは眠気眼でしっかりと鋭いことを言う。JINちゃんに悪気はないのだが、それを聞いたたまこは少しだけどぎまぎする。

「たまこはあの子のこと好きなの?」

 さらりと突っ込まれて答えられずにいるたまこに、JINちゃんはもうひと釘差すように言った。

「あんたさー、あんまり自分で自分の気持ちわかんなくするようなこと、やめた方がいいよ。」


 うまくいくだけが恋愛じゃない。そう言いながら、JINちゃんは最近自分の気持ちを持て余していた。
 今取りかかっている大きな舞台の仕事も、思いを寄せる男から引き受けたものだった。仕事とはいえ、起きているほとんどの時間を一緒に過ごす毎日の中で、個人的に触れ合うことはほとんどなく、そうするほかなくて自分から抱きしめたというのに、体と体が触れ合ったあの日のことを何度か思い返すたび、胸が飛び出しそうに震えた。
 今回の舞台に出演する若手の女優があからさまに男にまとわりついていることも、気にならないと言えば嘘になる。その子が嫌いな訳ではない。だけど男に対して自分が言えない誘い文句や明らかな媚態を人前にも関らずあっけらかんと晒す姿に、呆れ半分、正直に羨ましくも思い、それに男がどう反応するのかを気にしてしまう自分が居た。大抵男は聞くということもなく受け流しているが、時折見せるその子への呆れたような笑いに、JINちゃんの胸は小さく痛んだ。
 間もなくして、スタッフの間で男とその子が密かに付き合っているという噂が流れた。噂は噂だとJINちゃんは聞き流していたが、おそらくその子を好きなのだろう、熱くなった劇団員の一人が男に詰め寄った。詰め寄られて男は慌てることもなく「そんなことは君にも仕事にも関係ない」と言って仕事に戻った。JINちゃんは、自分だとしてもおそらく男と同じように答えるだろうと思いつつ、はっきり否定しない男に的外れな苛立ちを感じた。そしてその日の帰り際、JINちゃんは見てしまったのだ。

 その子が男を待ち伏せし、人気のない駐車場の片隅へと連れ出した。JINちゃんはついそれを追いかけていた。そこで、その子は何かを言って男に頭を下げると、不安げな表情のまま、正面から男に抱きついたのだ。そして男は、しばしの間を置いて優しく突き放すと、あろうことかJINちゃんにしたのと同じように、その子の涙を指で拭い、大きな手をその子の頭に置いた。

 その時、JINちゃんの胸の中で何かが砕け落ちた。そしてJINちゃんはもうそれ以上いたたまれずに、その場を後にした。男がそのままあの時のようにその子を置いて去ったのか、それともそれ以上の展開があったのかはわからない。それはもう別の人たちの歴史上のこと。ただ、目の前で繰り広げられたその一場面が、自分を見ているかのように重なって、目に焼き付いて離れない。

 涙を流すようなことではなかった。ただショックは大きく、その日の夜はベッドに入ってもまったく眠れなかった。だから、舞台の小道具を作ることに集中した。何度か、さっき見た場面がよみがえってきては振り払い、果てしない作業に没頭するよう仕向けた。

 朝になってようやく涙が出た。そこにいるのは自分一人なのに、JINちゃんはその涙をあくびでごまかした。


 JINちゃんはまた仕事に出かけた。
 たまこはコーヒーを飲んでもまだぼんやりしている頭を大袈裟に振ると、庭に下りて草むしりを始めた。

 JINちゃんのおじいちゃんの話を聞いてから、庭の草花に対する気持ちは変わっていた。それまでは主に園芸用の有用なハーブ類ばかりが目に入っていたのが、今では名前も知らない野草が気になるようになった。調べてみるとそれらのほとんどが何かしらの薬効を持つことがわかった。それらと親しむようになって日は浅いが、たまこは庭をまだ見ぬ宝の隠れ場所のように感じていた。そこに手を入れることは、庭を掃除することであり、作物を収穫することであり、先住民と慣れ親しむことでもあった。
 急に学生時代に誰かから聞いた薬草名人の言葉を思い出した。

「その人に必要な薬草はその人の庭に生える。」

 草花や土と触れ合っていると、ゆったりした時間の中で唐突に何かのひらめきが訪れ、それは何かしら今の自分を納得させる答えやアイディアであることが多い。地に足をつけ、天に手を伸ばし、内なる声を受け取る。この言葉にはそんな意味も含まれている。

 昼前に宅配便が届いた。たまこの母からだった。うどんの乾麺やおまんじゅう、ムートンのスリッパ、と母にありがちなバラエティに富んだ荷物の中に絵はがきが一枚、たまちゃんたまには帰ってらっしゃい、と書かれて置かれていた。

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