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【第5回】正直TKA,過去-2

阪和第二泉北病院 阪和人工関節センター 総長
格谷義徳 かどや よしのり

TKAの時代的背景

1980年代初頭は黎明期から約10年が経過し,TKA自体が混乱期だったと言える。初期に導入された各種インプラントにゆるみ,破損,摩耗,PF関節の問題等が顕在化するなか,次々に新しいインプラントが導入されていた。後に“初めて成功した表面置換型TKA”となるTotal Condylar型の成績は未だ報告されておらず,“夜明け前の一番暗い時期”であったと言える。だから私がよく耳にした”TKAは長期成績悪いからなあ”とか”何入れても一緒だよ“という先輩の言葉はあながち的外れなものではなかったのだ。

手術手技の観点からも混迷期だった。Original Gap techniqueの問題点(Joint lineの上昇,不安定性)の解決策として“解剖学的” “生理的”という耳触りの良いキャッチフレーズとともに,Measured resection techniqueが導入された時期にあたる。

私も当時書棚に並んでいたInsallの”Surgery of the Knee”を読んでみた。その後業者さんからもらった手技書に目を通してみると(結構真面目だったんだなと,今になって思う),さっぱりわからなかった。今考えれば,前者はGap technique,後者がMeasured resection techniqueによる手技なのだから当然である。指導する方も,2つの手術手技の理論や背景はまったくわかっていなかったと思う。

このように1980年代初頭のTKAは,すべてが”混沌“としていた時期であり,私にとって有史以前となったのは致し方なかったのだろう。

ロンドン留学

人工関節の臨床

THAとTKAの両方を行う整形外科医は古今東西を問わず多い。私の師匠であるMr. Freemanもその例にもれず,大腿骨頚部を温存するFreeman型THAは当時大阪市大関連施設で広く使用されていた。そのつてで(何も知らずに?)留学を決めた私にとって,当然彼はTHA surgeonであった。

ところが実際ロンドンに行ってみるとまったく違っていた。彼はTHAで言えばCharnleyに匹敵する!TKAの“Pioneer”だったのだ(無知は恐ろしい。今だったら恥ずかしくて行けない…)。“FreemanはTKAの先生,それも大物です”と医局に報告したのを覚えている。加えてTKAの“地位”が(日本と比べものにならないほど)高いことにも驚かされた。学会での扱いはもちろん一般医の評価も然りで,“へーっ,そうなんや”と目からウロコが落ちる思いがした。TKA暗黒時代の日本(大阪)から行ったので,余計にそう感じたのかもしれない。

(Freemanが週末を過ごすLacockのセカンドハウス。
玄関が絵はがきになっていると聞いてその絵はがきを買った。実に趣がある)。

とりあえず,私は“白紙”の状態で“TKAの超大物”の所に“THA surgeon”だと思って留学した(してしまった?)のである。白紙と言えば聞こえはよいが,単に無知だっただけである。さぞかし向こうも迷惑であっただろう。今となっては本当に,本当に申し訳なく思っている。

しかしこのことが私のTKA遍歴においては“最大の幸運”となるのだからわからないものだ。まさに”人生万事塞翁が馬”である。結局,断片的で不正確な知識をもっているより,“無知”の方が100倍良かった。変な知識に毒されず”まっさら“な状態で“本物”を見る機会を得たのだから。

そもそも人工関節に関しては英国に発祥するものが多く,THAにおけるCharnleyを知らない人はいないだろう。そしてあまり知られていないことだが,最初の表面置換型TKAは,Charnleyの施設(Wrightington Centre for Hip Surgery)で行われている(@1968, by Gunston)。そしてその翌年(1969),FreemanらがFreeman―Swanson型のTKAを導入している。これが最初のCondylar型TKAであり,専用手術器械によるアライメントの確立や,靱帯バランスの調整などの基本的な手術手技が確立された。その意味でTKA黎明期におけるFreemanの貢献は非常に大きい。TKA業界のLegendとなったInsallも“Surgery of the knee“の中で次のように述べている。

Although the Gunston polycentric prosthesis was the first cemented arthroplasty of the knee joint, the work of Freeman and colleagues had an even greater influence on the direction of both prosthetic design and surgical technique. 2nd Ed.. P678

TKAの歴史に関しては上記の“Surgery of the knee“をはじめFreemanやRobinsonの文献(1-2)に詳しいので,興味があれば一読をお勧めすする。

1) M. Freeman et .al.: British Contribution to Knee Arthoroplasty CORR 210 p69-79 1985.
2) R. Robinson.: The Early Innovators of Today’s Resurfacing Condylar Knees. J. of Arthroplasty Vol. 20 No. 1 Suppl. 1 p2-26 2005.

話を本題に戻そう。私がここで述べておきたかったのは1980年代初めの日本(大阪?)との情報格差についてである。当時FreemanはJ. ArthroplastyのEuropean Editor in Chiefだったので,欧州全体の情報はもちろん,アメリカも含めて世界中の情報が(勝手に)集まってきていた。遅れて届く論文を読むしかない,暗黒時代の日本とはエラい違いである。“世界の中心には情報が勝手に集まって来る”ということを実感した。そんな環境で“本物”で“最新”のTKAを学べたのだから,これを最大の幸運と呼ばずして何と呼ぶのだろう。まさに自分の基礎が作られた得がたい時間であった。

と言っても,手術を手取り足取り教えてくれることはなかった。すべての手術に手洗いして入って,見て盗むのである。同じ手術を数多く(真剣に)見ていれば必ずできるようになる。能率的かは別として,外科手技の習得にはそういう側面があるのだ。

私の場合も日本に帰る直前に(約3年間ずっと見ていたことになる),Freemanが突然“やってみろ”(正確には“Today is your day.”カッコイイ!)と言ってメスを渡されたが,何の迷いもなく1時間ちょっとでやり終えた。彼はにっこりして“Ah! Too good”と言ってくれた。とても嬉しく誇らしかったのを覚えている。

手技は見て覚えられるのだが,理論・理屈はそうはいかない。そちら方面は手術見学の時がチャンスである(結構頻繁にあった)。見学者からの質問やFreemanの解説を耳をダンボにして聞いたが,それが今でも私の礎となっている(もう一度聞きたい!質問したいことが一杯ある...)。

手術室でのFreeman。腰を締め付けるのを嫌がって,
いつも赤いサスペンダーをしていた。

(つづく)


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