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【第7回】正直TKA,過去-4

阪和第二泉北病院 阪和人工関節センター 総長
格谷義徳 かどや よしのり

帰国

卒後10年に及ぶ暗黒時代を経て,“TKAの超大物”の所に“THA Surgeon”だと思って留学してしまったことは既に書いた。妙な先入観の無い“白紙”の状態で“本物”のTKAを学べた事は私の最大の幸運であり,TKA Surgeonとしての基礎がロンドンでの3年間で形成された事は間違いない。とは言え経済的には大赤字であった。ほぼ無給であったからプラスマイナスで計算すると,マイホームが充分買える位の出費(投資)にはなっている。(正確な計算は敢えてしていない。怖い・・・)。結果としては今の自分にとってはになったのだが,誰にでもお勧めできる選択では無かろう。このあたりの“留学の期待値(お金の問題)”については,機会があればまた考えて見たい。

さて,留学期間も終わりに近づくと,とりあえず帰国後の事が気になってくる。と言っても,今後の身の振り方については全く無為無策であった。そもそも教授が代わってしまっていて,どうしようもなかったのだ。普通ならこんな時期に留学はしないものかもしれないが,行く時点では全く頭になかった。教室に蔓延していた停滞感,閉塞感が嫌だったし,次期教授を巡る思惑の中では完全な部外者だったので,失う物も何も無かったのである。何より,卒後10年経っても“何者でも無い”自分に見切りをつけるための留学だったから,後はどう転んでも“”だったのである。私が帰国したのは1995年の3月末,折しも1月に阪神淡路大震災,帰国直前には地下鉄サリン事件が起こり,“なんでそんな物騒なところに戻るのか”と問われて,“逃げ場所はないから”と答えて英国を離れた。

結局,与えられた職場は助手としての大学病院勤務であった。その後講師,助教授に昇進するので,履歴書上は“留学で箔をつけて,トントン拍子の出世”のように思われるだろう。しかし実際はのである。

帰国後9年間の大学勤務は私のTKA遍歴上,第二の暗黒時代となるのだが,当時は知るよしも無い。知らされた時には“そっかぁ,大学なんや“とちょっと驚くとともに,”人材不足なんやな-“と正直思った。新教授による旧体制からの一新は聞いていたが,それでも自分にお鉢が回ってくるというのはどう見ても非常事態であろう。とにかく拾ってくれた事は有り難かったし,”もともと“と思っていた自分にとっては望外の処遇であった。拾って損はさせない(させてはいけない)との思いはあったし,TKAの本家で勉強してきた“と言う自負だけは持っていた。

当時の私の気持ちをもう少し正確にお伝えするには,少々長めの昔話が要る。退屈かもしれないが,今から思えば鷹揚であった時代の話として,お付き合いいただければ嬉しい。

(つづく)


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