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【第18回】正直TKA,過去-7

阪和第二泉北病院 阪和人工関節センター 総長
格谷義徳 かどや よしのり

少数派の抵抗

若造がそんなスタンス(前回参照)で何とかやって行けたのだから,ある意味“懐の広い”医局だったのだろう。その事は幸運であったと思うし,感謝もしている。色々言われる事は多かったものの,具体的な管理・干渉はされなかったし(ということになる),大学院生が毎年希望して来てくれたのは有り難かった。教室から長期間英語論文が出ていない! という,これも大学としては“あり得ない”時期だったので,ネタを見つけて英語で論文を書くと言うことが,唯一最大の免責事由になっていたのは確かである(ここでも英語が身を助けてくれた)。

大学スタッフの集合写真,何故か教授のすぐ後ろに居る(→)?

学会に行くと “あり得ない”と感じることはさらに多く,“なんじゃこれは?”の連発であった。“TKAの地位が低い上に一昔前”だったのは言うまでもない。

当時(1996年版)の矢野経済研究所の資料を見てみよう。1995年度の手術数はTHA:16,656件,TKA:21,745件で,数の上では既にTKAがTHAを凌駕している。しかし,当時はまだ人工関節と言えばTHAとバイポーラだったのである。その証拠に資料中にTKA単独の市場分析は見当たらない。人工関節の内訳がTHA&バイポーラとその他”というのは,今の感覚からすれば信じられないだろうが,事実そうだったのである。TKAが独立した項目として掲載されるようになるのは,1999年度版以降になる,この事から窺い知れるように,本邦でのTKAと言う術式の評価はまだ低く,発展途上であった。原因となるTKAを取り巻く環境(指導者側の問題や,TKA自体の問題については,既に書いているので興味がある方は遡って読んでいただきたい。

1996年版矢野経済研究所の資料より

手技的にも明らかに欧米から見れば“一昔前”であった。TKAが初めて分析された1999年度版を見てみると,98年度のセメント固定は49.5%と半数以下である。そして前年の97年度のセメント固定は36%にすぎず,セメントレスのほうが優位なのである。このように本邦では90年代後半までセメントレスが優位であったのだ。

1999年版矢野経済研究所の資料より


2000年版矢野経済研究所の資料より

この状況は世界的に見てどうだったのだろうか? SwedenのKnee Arthroplasty Registryは当時の(唯一の)信頼出来る情報源と思われるので,その中のセメント固定に関する項目を見てみよう

重要なポイントがいくつかある。

  • セメント固定が全期間を通じて圧倒的多数派である。

  • ノンセメントは80年代前半から90年代後半に限定して行われた(最大でも<30%)。

  • ノンセメントの生存率はセメント固定に劣る。

  • ノンセメントは1986年をピークに激減している。

私が帰国してTKAを本格的に始めた時期(1996〜1997年,赤矢印)に注目していただきたい。その頃には,ノンセメントはその成績不良が周知の事実となり,すでに“絶滅危惧種”であったことがお分かり頂けるだろう。

古くから議論されているPS vs. CRの問題も然りである。これが最初に掲載されたのは2002年で,その時は既にPSが50%,CRが40%とすでにPSの方が多い。それ以前の資料が無いので正確には不明であるが,PSはほぼ全例セメント固定されるのでPS型がシェアを増やしたのは,先に述べたセメント固定が急増した1990年代後半であろうと思われる。

だから私が帰国してTKAを本格的に始めた時期(1996〜1997年)にはまだまだCRが優勢だったのである。私はFreemanのインプラントが入手できないので,Insall Burstein型のPSを使用していた(EBMからは他の選択肢はなかった)。当時PS型の普及のためのセミナーが各地で開かれていたが,何を今更と感じたのを覚えている。

だから帰国当時の私がCR,ノンセメントの演題で埋め尽くされた人工関節学会に出席した時の事を想像してほしい。まさに新興宗教の集会に迷い込んだ様な気分であった。異なる考え方が前提(大多数)となっている集団の中で,少数派がその前提自体に異を唱えるのはとても難しいし,勇気がいる。それでなくても何処の馬の骨かも分からない若造の発言なので,聞いてもらえる可能性は低い上に,発言の趣旨が“そんなんアカンに決まってるのに,なんでやってはるんですか?”(つい興奮してコテコテの大阪弁になっていた様な記憶がある・・),なのだからはなから相手にされないし,論議にならないのである。

少数派

当時のTKAの業界にはうるさ方の先生も多くおられて,よくしばかれた。今から考えても先生方が多かったように思う。特に関東圏の先生(誰とは言わない,言えない?)からは“愛のない”叱責を数多く頂いて悔しい,情けない思いもいっぱいした。それでも“あり得ない”と言う“内なる声”の叫びの方が強くて黙っていられなかったのである。そして同時に

“すぐ日本一になれるな”

とも思った。生意気の極みだったのかもしれないが,とにかく相手が “10年遅れ”なのだから,競争相手としてはとても与しやすい相手だったのだ。 まがりなりにでも“世界基準”が染みこんでいた私にとっては,当時のTKA業界はまさにブルーオーシャンに見えた。

1997年5月に大阪市大が主催した第90回中部整災にFreemanが来てくれた。
後ろに居るのが筆者。この時も彼はサスペンダーをしている。色使いがカッコイイ。

以上令和4年4月23日に,市整会フォーラムで行った「正直TKA,過去・現在・未来」の過去の部分の続きである。私の第二の暗黒時代である大学勤務と周囲の無理解に苦しんでいるうちに,私はまたよき師匠達に出会い,助けられることになる。ありきたりだが出会いに関しては“まずは人柄”だなあとつくづく思う。外科手技の習得に必須なのは“腕の良い”“信頼できる”“正直な”お手本を見つける事なのは間違いない。私の日本でのTKAの師匠となる先生方との出会い,そして“日本(の外科医)もすごいわ”と思うにいたる経過についてはまたこれから書いて行こうと思う。


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