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表現学部設立とこぼれ話 -前編-

我らがMEDIA LAB SUGAMOは、
大正大学表現学部の学生が運営しています。

日本に「表現学部」と名の付く学部は2つだけ。
貴重な学部の設立に携わった山田潤治准教授
インタビューさせていただきました。

特徴的な学び、本格的な機材、様々な経歴の教授……
このようなワンダーランドは、
果たしてどのように出来上がったのでしょうか。


表現学部 表現文化学科は5つのコースからなり、
それぞれのコースで、特色のある専門的な学びを展開しています。

それぞれのコースの具体的な学びが気になる方は、
大正大学公式HPを見てみてくださいね。
MEDIA LAB SUGAMOでも、コースの学びを紹介する記事を公開予定です!


・・・

お話を聞いた先生:
山田潤治(やまだ じゅんじ)
表現学部 表現文化学科 准教授
主にアート&エンターテインメントワークコースのゼミにてディベートについて指導。比較文学を専門としている。

インタビュアー・記事:

表現学部 2年
山田先生がゼミを開講している、アート&エンターテインメントワークコースに所属。

山田准教授について、詳しくはこちら



“表現されたもの”ではなく、“表現”を学ぶ


――表現文科学科は、最初は「文学部」にあったということですが。

山田 そう。それまでは文学部国際文化学科だったんです。これがその時のパンフレットです。掘り起こしてきました。

文学部表現文化学科設立当初のパンフレット

――そこが、文学部表現文化学科になったということですね。

山田 そうです。僕が大正大学に最初非常勤で来たのが1998年ですね。 まだあなた(インタビュアー)が生まれる前。僕も結婚する前で。
その前は予備校で働いていたんだけど、なんか女子高生にモテモテだった(笑) 

――確か授業でそんな話していましたね。

山田 そう(笑) 1998年から非常勤、それから専任になったのは2001年ですね。

そのときの国際文化学科には、欧米文化コースとか、哲学・宗教コースとかがありました。あとは、英語・英文学コースとかも。
で、それらを改組しますという話になって、 文学部国際文化学科から文学部表現文科学科っていう名前に変えたんですね。

そして、変えるにあたって新しく作ったのが、『創作表現コース』というコースです。


山田 表現を主体にしようという発想で作ったんですね。それまでは、”表現されたもの”こそが大学で学ぶものだという発想があったんです。

例えば、シェイクスピアの真髄は何かとか、チャールズディケンズは何を表現しようとしていたのかとか。既存の表現物の中身の方が大学で学ぶべきものであって、その“表現自体”っていうのは、道具という扱いだったんですね。

当時は、英語に対しての学び方も同じようなものでしたよ。大学に行って、英語の勉強をして、国際的に活躍したいって考えている高校生は多かったです。今もそうでしょ? でも、実は当時そんな受け皿ってなかったんですよ。不思議でしょ?

――確かに。

山田 今は、英語の勉強を大学でできるなんて当たり前でしょ。
でも、当時は英語って掲げているコースとか、学科って日本全国にほとんどなかったね。

当時あったのは、獨協大学と麗澤大学。そこぐらいしか関東圏ではなくて。他は全部英文学科なんですよ。

――英語自体というか英文学?

山田 そう。英語じゃなくて、文学を学ぶ場所。文学を学んで、イギリスとは何か、イギリス人って何かを考えるとか。それがメインだったんですよ。

それをじゃあ、大正大学ではそういう学びを逆転させようというので、ツールを学んで、そこから表現の中身を考えようっていう風に発想したの。で、何を作るかではなくて、まず表現を学びましょうという考えの『創作表現コース』ができたんです。

――現在の表現学部に近づいてきましたね。

山田 でも、実はこの前に、既に放送系のコースがあったんですよ。

――あれ、そうなんですか?

山田 放送系のコースはずっとあるの、すごく昔から。NHKのプロデューサーの人とかが教えていて。
今のスタジオよりもっと小規模だけど、昔からスタジオはあったんですよね。この大学は。


3号館地下にある、カメラや音響施設が整ったスタジオ。
普段の講義はもちろん、サークルなどの有志の撮影などでも使われることも。
(大正大学受験生応援サイトココカラより引用)


――それは知らなかったです。

山田 あと、文学部の日本語・日本文学科というところに、また別の創作系のコースもあったりして。
それぞれ別々にあったから一緒にしようっていうことを提案して、立ち上がったのが『創作表現コース』。とにかく表現技法、つまり撮り方とか、カメラとか。まず、そっちを叩き込んで、それから表現しようっていう順番に変えたんですよ。それがちょうど20年前ですね。

――本当に初期の表現学部ですね。

山田 そう。だから、今の表現文化学科が1つのコースだった時代。

――ああ、今ある5つのコースが全部1個になっているみたいな。

山田 そう。もうビックバンみたいになっていて(笑)

――本当ですよね。すごくボリューミー。

山田 最初は30人ぐらいでやりたいなと思っていたんですよ。というのも、専任で張り付いたの私1人でして。

――え!

山田 そう、とにかくやってみろみたいな感じで、1人だけで。他のコースはもちろん何人も先生がいるんだけど……。
まあ、でもとにかく始めて、蓋を明けたら学生が165人とか来ちゃったわけですよ。

当時は、コースごとに募集していなかったから文学部表現文化学科として、300人ぐらい取ったんです。それでじゃあ、コースに分かれてくださいと言ったら、この『創作表現コース』に165人も来ちゃって。

――なるほど、それを山田先生が1人で。

山田 そうそう。教室も80人ぐらいの教室しか割り当てられてなかったから。

――倍じゃないですか(笑)

山田 そう(笑) もうほんと笑っちゃうけど、まあ、当時まだ僕も若かったからさ。『創作の諸問題』という授業が最初にあった時、『じゃあ、みんな。まず、教室の机と椅子を全部外に出して』って。

――そのぐらいギチギチだったってことですね。もう椅子座れないですもんね。

山田 みんな三角座りして(笑) 地べたに座った状態で車座になって。むちゃくちゃです。

――大学らしくないというか。今までの大学だったら考えられない。

山田 まあ考えられないね。でも、すごいエネルギーがありましたね。不十分だけど、とにかく自分たちが最初の学生、自分たちが作るんだみたいな意識はすごくあったから。まあ、『ここは何もない、お前らが作るんだ』ってごまかすみたいに言ってた部分もあるんだけど、なにもないからしょうがないね。

――先生は1人だし、前例がない中で。

山田 そこからのスタートです。でも、さすがに1人じゃどうにもならないだろうっていうので、映像系をやっていた石原康臣先生という人を多摩美術大学(以後、多摩美)の助手から連れてきて。それともう1人、後藤先生という博報堂の人に来てもらって、3人で最初始めたんだよね。


ついに始まる表現学部らしさ


――それで、最初の『創作の諸問題』という授業とはどういうものだったんですか。 

山田 とにかくグループに分かれて『なんでもいいからやってみろ』と。プロジェクト起こしてやってこいという授業でしたね。

――『もう一つの街物語』でおっしゃっていた「暑中見舞い」の話もですか?

『もう一つの街物語』
アート&エンターテインメントワークコースにて今年度開講された『創作の諸問題』の類似授業。

山田 そう。暑中見舞いプロジェクトもこの授業ですね。
まあ、なんでもいいからやれという話をして、お金がいくらかかるか分かったら、そのお金だけ言ってこいみたいな。
じゃあ何をやるんだって言ったら、例えば映像系をやりたいという子がいて、そういう子は、自分たちでグループ組んで、なんかPVを作ったりしていましたね。まだVHSの時代です。

――VHSの時代…

VHS、家庭用のビデオ規格。令和の今、触ったことのない学生も多いのでは。


山田 当時はカメラも全然足りなくて、大学が持ってるフィールドワークに行った時用の記録カメラぐらいしかなくて。プロ用のカメラは、もうスタジオにある据え付けの1台だけみたいな。今じゃ何十台もあって気軽に借りることができるけどね。
とにかく最初に色々言って、大学の記録カメラを掠め取る勢いで集めて、それを持って撮りに行って。大学1年生だけど、コギャルの女子高生の格好をして撮っていましたね。エネルギーがある素晴らしい出来だったよ。

――そうなんですね。

山田 他には、小説を書きたいという子は、物語を作って小説集みたいなのを作るとか、それぞれ自由にやっていましたね。

いろんなプロジェクトがある中で、1つ変わっていたのが、ゴトウくんという学生が起こした『暑中見舞いプロジェクト』というプロジェクトです。
何をやるのかと聞くと、暑中見舞いをやりますみたいなこと言っていて。馬鹿じゃないかと思ったんだけど、暑中見舞いをとにかくやりますと。要するに、暑中見舞いにまつわることを色々な形で展開してみようみたいな発想で。

まず、最初に暑中見舞い申し上げますと書いたカードを作って、道行く人に配っていく。次に垂れ幕みたいなのを作って、1号館の上からぶわって垂らす。あと、階段の腹の部分に横長の壁画みたいな、ベタベタ貼って。
後で凄く怒られたんだけどね。学校に謝ってばっかりだった。

――(笑)

山田 あとは、プリントゴッコを買ってくれっていわれました。
プリントゴッコを皆さんは知らないと思いますけど、年賀状を作るような機械で、絵を描いて、ぺったんぺったんってやって作っていくものがあったんですね。それを買ってくれと言われて買ったら、それで暑中見舞いTシャツみたいなのをぺったんぺったん作って、みんなに配ってくみたいな。

プリントゴッコ(IT media NEWSより引用)


――発想が面白いです。暑中見舞いへの熱がすごいですね。

山田 そう。なぜ暑中見舞いなのかは全然意味わかんないけど。

――自由にやっていいからこそ、そういう発想が生まれたのではないかと思います。それにしたって自由ですね。なかなか思いつかないです。

山田 そうね。でも、その時は凄く可能性を感じましたね。なんとなく、今までの固定化された大学の学習とは違って、新しいものが出てくるような、そんな感じもしました。

――今でこそフィールドワークは当たり前に行われているものだと思っていたんですけど、全然違うんですね。

山田 全然。今は当たり前のように様式化されちゃったけど、最初は全然そんなんじゃなかったんですよ。巣鴨の地蔵通り商店街がすぐそばだから、とりあえず行かせるみたいなこともしてました。

その後2年ぐらいして、渡辺直樹先生っていうSPAという雑誌を創刊した時の編集長で、今は地域人という大正大学が刊行してる雑誌の編集長やっている人が大学に講師として来たのね。
で、渡辺先生に何やったらいいかって聞かれて、私は『とにかく神保町とかに学生を出しとけば、とりあえずどうにかなります』と答えたの。そこから、商店街とかのフィールドワークが本格期にスタートしたかな。今では編集コースの方で様式化されてるよね。
そういう風に発展していった感じかな。

――やっぱり最初、コースが分かれてなかったっていうのが驚きですね。

山田 そう。もう、ぐちゃぐちゃでした。

――そうですよね。やりたいことはいっぱいあるし、逆になんでもできるしみたいな。

山田 そうそう。良かったのは、そのコースの子たちで、別にやりたいことと関係なく、仲良くなっていくんだよね。
「じゃあ、俺が台本書く」「じゃあ、俺が撮る」みたいな感じで、いろんな思考を持った子たちがコラボレートしていく環境だったね。
今は、もうコースに分かれちゃっているから、なかなかアーエンの学生が編集コースの学生と一緒になって、みたいなことはそんなに起こらないけど、昔はもうぐちゃぐちゃでした。 人間関係もぐちゃぐちゃだったけどね。

――それはちょっと聞いていいのかな、みたいな。ちょっと不安なところがありますけど(笑)

山田 それは、ちょっと言えませんね。ぐっちゃぐちゃでしたし。卒業する時びっくりしたもん。本当にそれで仲良く大学過ごせたなみたいな。

――そこまでいくとちょっと怖いですね。少しドキドキしてしまいました。


"表現学部"表現文化学科へ  ~アーエンコースの誕生~


――では、いつからコースに分かれたのでしょうか?

山田 いつからかな。はっきり分かれたのは、表現学部の立ち上げからですね。

――それまでは「文学部」表現学科でしたもんね。

山田 そう、表現学部になったのは、2010年から。今年で12年目だね。
2010年に表現学部表現文科学科になって、その時にはっきりとコースが分かれるようになりました。それまでは、コースって言っても、ゼミごとに性質はあるけれど、ごちゃっとした感じでした。

――まだ垣根がない感じですかね。

山田 もちろん中には、出版系をやりたい子は出版系の渡辺先生や、編集長の経験もある歌田先生のところに行くみたいのはあったけど。でも、その頃は別にコースっていうのはなかったですね。

――ちなみに、アーエン(正式名称:アート&エンターテインメントワークコース)の元になるコースは、どこかにあったんですか?

山田 元々は放映コースで、放映コースからのスピンオフなんですよね。

――スピンオフ?

山田 元々放映コースには、映像を撮りたいという子が多かったんだけど、ファッションとか音楽とかが好きだっていう子もすごく多かったんですね。ファッションとか音楽をテーマにして卒業論文書く子も多くて。
そうしたら、特に音楽とかをターゲットにした学びを中心にしてほしいみたいな希望があったの。つまり、カメラを持って創作したいわけではないっていう。

当時、放映を主に担当していた石原先生はアーティストだったのね。
まあアーティストの人って、アートが主だから、ドラマとかを撮るとか、そういうのはちょっと小バカにする感じになるわけですよ。芸術性が低いから。要するに、当時はもっと芸術性の高い前衛的な創作・制作がしたいみたいな感じになっていて、ジャニーズが好きとか言ったら鼻で笑うみたいな、そういう空気だったのね。
特に就職に弱いという特徴もあって。やっぱりアーティストになりたいから、「就職するの?」みたいな。

――あー。そうですよね。就職って言われるとちょっと。

山田 そうそう。「ひよったか、お前!」みたいな、そんな空気だったんですね。それで、さすがにこのままじゃまずいだろうと。就職率をしっかり上げて組織の中で活躍する人を育てないと、社会的な要請に応えられないだろうという話になって、2012年に準備委員会みたいなのが立ち上げられたわけですよ。
それで、最初はね表現ビジネスコース的なのを作れみたいな、そんなことを上から言われて。いやいやいや、その名前だと誰も来ませんよ。そんなつまんなさそうなやつじゃと。
じゃあ、エンタメをベースに置いて何かできないかというので、白羽の矢が立ったのが川喜田先生と外川先生のお2人です。

――お2人が中心だったのですね。

川喜田 尚教授
表現学部 表現文化学科 教授
主にアート&エンターテインメントワークコースにて、メディア論やマーケティングについて指導。著作権も専門としている。

外川 智恵教授
表現学部 表現文化学科 教授
主にアート&エンターテインメントワークコースにて、ブランディングについて指導。大正大学の卒業生でもある。

山田 この2人を呼ぶために調整をしろと上に言われて、私がそこでまた移されたわけですよ。これ、4回目ぐらいですね。この大学の中で異動になったのは。

――いろんなところに異動されて。

山田 そうそう。立ち上げ屋みたいになって。
2012年から1年がかりで準備をしていって、2013年に前身の「エンターテインメントビジネスコ―ス」を立ち上げました。
そして、今から3年前かな? 2019年にアートの要素を入れるというので、現在の「アート&エンターテインメントワークコース」に変わったっていう流れですね。

――そんな流れだったんですね。

山田 そう。現場で重宝されて、現場に行って輝ける人を育てようというのが最初の発想だね。小難しいことを言って動かないやつではなくて、とにかく動けて、誰からも「あの人がいれば現場が回る」と言われる人を育てようという発想。


見守り続ける山田准教授が、学生に思うこと


――ちなみに当時いた先生は、もう山田先生しかいらっしゃらないのですか?

山田 そう。去年、西蔭先生という英語・コミュニケーションコースにいた先生が、定年でお辞めになって、最初からいたのはもう私だけになってしまいました。

――じゃあ、もう初期のころを知るのは山田先生のみに。

山田 そうね。

――そうなんですね。お話を聞いて、昔の表現学部は私が想像していたものと全然違いました。私はアーエンコースに所属していてあまり創作物を作る経験があまりなかったので、お金を与えられて、自分たちで考えて、自分たちで全部やってという昔のスタイルもいいなと思いました。すごくいい経験だなって。

山田 そうだよね。まあ、ほとんどの場合は失敗するんだけど、失敗していいかなと思っていて。まあ逆に言えば失敗してほしいというかね。

こんなものを作りたいと言ったら、みんな最初はふわっとしたものを考えるんだよね。みんなが大体18、19歳ぐらいで、いいなと思っているものってほとんど似通っていて、夢とか希望とか明日への糧とかそういうものでみんな物作りをするんだけど、大概出来上がってくると、自分たちが思っていたものとはまた違ったものというか「こんなもんだっけ?」みたいな感じになってくることが多いと思う。

もちろん、私は大学の教員という立場で評価をしなければならないから、その時のパフォーマンスの度合いをみるけどね。だけど、正直、今やったことは10年後に花咲くかなという風に思ってるから、今はたくさん良い失敗を経験してほしい。

――花が咲くのは今すぐではない?

山田 そう。10年経った時に、ああ、大学生の頃あんなに恥ずかしいことをやったんだな、でも、その中で身につけたものはこういうものだったなって。後から振り返った時に、自分の糧になるようなものがあればいいかなと思って。

――確かにそうですね。座学だけやっていたらそういう経験はないですからね。

山田 そうね。だから、手動かして、作ってみてね。


前半では表現学部誕生、そしてコースの誕生についてのインタビューをさせていただきました。
後編は、表現学部一年生の一大行事「光とことばのフェスティバル」やコロナ禍と表現学部などなど……盛りだくさんの内容となっております!


・・・

編集:小澤
表現学部 3年
情報文化デザインコース(編集)

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