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Ven.avr.12  春


新入生を迎える桜が咲き誇り、春眠を蹴り上げて、暁を覚えねばならない頃合い。四月も中旬になる。
スクリーンの前、跳ねるキーボードで頭の中を透かしてみせれば、白紙に浮かぶのは、花にもならない言葉ばかりなので、どうも書き続けるということが億劫になる。
が、何事も習慣だ。
暴走する思考の渦でも、そろそろ泳げるようになりたいわたしは、きっと花筏。遊泳気分で書いてみようと思う。



フランス文学の教授(石膏で出来ているみたいな横顔の、厳しい曲線から出てくる、穏やかで遠慮がちな終始戸惑っているような物言いが結構好き。でも、断言を避ける物言いだから授業内容をまとめるのが大変。)が講義中に絵を見せてくれた。春の寓意とも名高い、サンドロ・ボッティチェッリの春、プリマヴェーラ。某イタリアン料理のチェーン店の壁で、見かけたことがある人もいるんじゃないかしら。あとは世界史の資料集かな。クラシカルな色の取り合わせが、いかにも古典作品という感じがする。芸術学の授業中、寓意の題でもこの絵を取り扱った気がするが、よく覚えてない。だってその前に講じられたホルバイン論争を追いかけるので手一杯だったんだもの。美術史ってむずかしい。また、レジュメをよみかえさなくちゃ…。

プリマヴェーラの絵には、花々と、いっそ黒と言ってもいいぐらいに厳格な緑色をした木々が、額縁のように並んでいる。荘厳な草木が讃えるように、取り囲んでいるのは、三美神やニンフ、春の女神、そしてアフロディテ。

教授はクルツィウスを引用して言った。描かれるのは単純な風景描写ではない。樹木草地泉もしくは小川、それに鳥のさえずり草花の五つの要素をとりあつめて、そこに住まうもの、つまりは、神格、人間、ニンフたちを備えた自然の姿が、描かれる風景として一般的であった、と。そしてこれは、伝統的なcliché、修辞学上の規則にのっとった定型表現を組み合わせて作られた理想的風景である、と。修辞学上という言葉から察するに、いま、絵画というヴィジュアルな領域から、文学の世界へ話が持ち込まれたと思う。なぜこのような叙述が伝統として一定の価値を認められ続けているのだろう。理由は単純。その方が美しいからだ。


敢えて問おう。作家は、美しくあるように書くのか。その美しさで何のために書くのか。その答えを見つけるためには、わたしはきっと彼の著作を読まなければならないのだろう。ジャン=ポール・サルトルは問う。文学とは何か。

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