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自己顕示欲を満たすために生徒会執行部に入った男の話

自己顕示欲という単語は皆さんも当然ご存知あると思う。
今一度、辞書を引いてみると、以下のような意味となる。

自己顕示欲(じこけんじよく)とは、周囲の人々から注目され、そして認められたい、という欲求のこと。

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読んで字の通りと言えばそれまでだが、昨今においては往々にして、「他者から分不相応な尊敬や注目を集めたいという願望」という半ば嘲笑の意味を込めた用法として使われている。

僕が「自己顕示欲」という言葉を知ったのは大学生くらいだったと思う。遅すぎるだろうという指摘もあるかもしれないが、それに代替する・・・というよりかは語源(?)になっている単語は中学生から知っていた。

「承認欲求」という単語は、おそらく道徳やらHRの授業で耳にした方もいるだろう。いわゆる、マズローの欲求五段階の一つだ。
この話をしだすと長くなるので割愛するが、この承認欲求には「尊敬欲求」と呼び変えることができ、さらにその中には「低いレベル」と「高いレベル」というものがある。

高いレベルというのは、自分を自分自身で認めることのできる、自己尊重の枠組みだ。
そして、低いレベルというのが他者からの尊敬や名声によって満たされるものであるとされている。

こうして見ると、「自己顕示欲」というのは、「低いレベルの尊敬欲求」であると言い換えることができる。

前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。
つまり何が言いたいかって、僕は中学生時代、他の生徒から尊敬されたくて生徒会執行部になったということなのである。

中学生時代、僕は決して「出来る」人間ではなかった。
いや、少し語弊がある。勉強は正直学年一できていたと思うので、そういった意味では「出来る」人間であったのかもしれない。

だけれども、世の中は全て、流行り廃りと需要供給によって成り立っているのである。
思い返してみてほしいが、中学生時代、クラスの中心にいた人間は誰だっただろうか。
野球部のキャプテンやサッカー部のエースといった運動部、クラス一の美女等々。
多分大体は、何かしら身体的アドバンテージを持っていた者だったと思う。

勉強できるだけのやつは絶対にクラスの中心にはいない。
「いや、いた。」という方は今一度よく思い出してほしい。多分、その勉強できる生徒というのは、他に身体的アドバンテージがあったと思う。

ともかく、何が言いたいかと言うと、中学生というのは勉強でモテることは出来ない。
需要がない。

しかも、若干過保護の域に入っていた母親から部活を禁止され、勉強ばっかりしていたら、気づけば中学1年生も大部分が終わっていたのだ。

つまり、需要がない能力に加え、所属していたコミュニティすらなかったということだ。

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「あれ?やばくね?」
時すでに遅し。

そんな僕に一発逆転の機会を与えてくれたのが当時担任の先生であった、K先生だった。
新任1年目の教師であり、結構苦労していたのを今でも思い出すが、それは別の話。

「吉田くん、何もしてないなら、生徒会執行部やらんか?」
中々えげつないことをさらっと言う。だけれども、僕はここに賭けるしかなかった。

生徒会執行部になって、人前に出る機会が増えれば、自ずとクラスの中心に躍り出られるのでは?とまでは思わなかったが、ある一定の尊敬を得ることができるのではないかと思いついてしまった。

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生徒会執行部になるには、必ず選挙を行わなければならない。しかし、幸いにも僕のいた中学校の生徒会選挙はほぼ出来レースであり、信任投票の形をとる。つまり、対決投票ではないので、全生徒の過半数を占める信任を得られれば執行部員になれる。

ここで幸いと言ったのは、本当に「幸い」だったのだ。
多分、決選投票の形を取っていたら、絶対に僕は当選していない。それを裏付けるように、僕は全生徒の2/3にあたる獲得票を得ていた。

「過半数どころか、国会で言うと、憲法改正ライン超えてるじゃん。」と思うかもしれない。
だけれども、これは、中学校の話なのだ。中学生が自分と同年代の人間の話を聞いて、その施策に対して賛否を問えるわけがない。
大体は「人」を見て決める。つまり、その人が好きorどうでもいいのであれば、信任に入れるだろうし、嫌いor嫌がらせしたいなら不信任に入れる。

はっきり言おう。
僕は関わりが非常に深いはずの同学年生徒から、ほとんど信任を得られなかったのだ。悪いがこの際、関わりが浅かった他学年の生徒の信任などあってないようなものである。

自己顕示欲を満たそうと思い立ったのに、それに成る前から出鼻を挫かれた愚か者であった。

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結局のところ、身分や肩書だけで人は尊敬を集めることはできない。無論、「低レベルな尊敬欲求」を満たすこともできない。
身分や肩書には、必ず「能力」と「その能力のわかりやすさ」を伴わなければならない。当時の僕には生徒会執行部、つまりその学校生徒の代表たる能力はなかった。

おそらく、その時、少しだけ大人になった。

しかし、当時の自分に今の自分がもう一つだけ助言が出来るなら、「身分とそれに伴う能力があったとしても、人から尊敬を集めることができるかどうかは微妙」ということだ。

ここまで長く書いて、無難な言葉で纏めるのは癪ではあるが、やはり人から尊敬を集めるには人柄の要素が大分大きいと思う。
それは決して優しい人物なのか、そうでないのかではない。口が上手いか下手かも関係ない。時に優しくても疎外される者もいるし、口が上手くても口先だけと言われたりする。

自己顕示欲を満たしたい方というのは、無理に他人に対して優しくしようとしたり、自分のことを情報発信したりするものだ。
他者からすれば、「お前の優しさなんていらない」し、「お前の情報なんていらない」のである。

今一度思い返して欲しいが、クラスで、部活で、又は会社で中心的な立ち位置にいる人物は果たして優しくする努力や自分のことを知ってもらおうとする努力をしていたであろうか。
否である。彼らは普通にして、それでいて出来ているのだ。
それが自己顕示欲を満たされない我々の欲求を更に深めることになるのだが。

それでは、我々は一生自己顕示欲が満たされないままなのか。
それは違うと思う。
じゃあ、今、円の中心にいる彼らのように何の努力もしなくていいのか。
それも違う。

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他者から尊敬を集める第一歩として、まずしなければならないことがある。
それは、「他人に強い興味を示す」ということだ。

自己顕示欲の強い人に限ってありがちなのであるが、彼らは他者に興味がある風で、その実、自分にしか興味がない。
そういう人間は感覚で分かられてしまう。
現に僕は当時、生徒会執行部選挙で堂々の2/3だった。

自己顕示欲しかり、承認欲求しかり、自分1人では満たすことはできない。自分を評価してくれる他者がいることによって成り立つのだ。
それを決して忘れてはならない。

最後になるが、不信任に投票してくれた元同学年の諸君。
僕を目覚めさせてくれてありがとう。
一生忘れないからな、ボケカス。

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