2人の空飛ぶオランダ人
「空飛ぶオランダ人って渾名、なんていうか、ダサい。」
これが私の愛するクラブと代表チームの始祖とも呼ぶべき男に対し一番最初に抱いた感想である。
ヘンドリック・ヨハネス・クライフ。今では通称であるヨハン・クライフという名の方が世界で知られているこの男は、正しく伝説の名をとるに相応しい人物である。
名将と謳われたリヌス・ミケルスと共に『トータルフットボール』の旗手として颯爽とフットボール界に登場し、選手としても監督としても、数え切れないほどの功績と思想を残していった。
彼については私などがここで多くを語らずとも、フットボールを少しでも齧った人であるならば彼の偉大さは知るところであるだろう。
彼の登場から長い月日が流れた今日でも、オランダ史上最高の選手と謳われる彼につけられたあだ名が、『空飛ぶオランダ人』。
…正直同意してくれる人もいるのではないだろうか、どう考えてもダサい。というよりも、もう少し捻りを加えても良いんじゃないかと思わされる。
考えてみてほしい、彼と同時代に活躍したベッケンバウアーは『皇帝』、ペレは『王』、マラドーナは『神の子』である。
勿論クライフ自身紛れもないオランダ人であるし、他にも救世主なんていう大変に中二病心をくすぐる渾名を持っていたりもするのだが、最初に空飛ぶオランダ人なる愛称を知ってしまった私は正直拍子抜けしてしまった、というわけだ。
結局、当時小学生だった自分はクライフの渾名問題についてそれ以上考えることも思い出すこともなく、今日まで過ごしてきたわけである。
それが先日、見つけてしまったのだ。
もう1人の「空飛ぶオランダ人」を。
彼の名はヘルト・フォン・ロテルダムス。今日では『痴愚神礼讚』の著者『デシリデウス・エラスムス』として広く知られている。
本名にあるロテルダムスという響きから分かるように、彼もまた現在のロッテルダム出身の歴としたオランダ人である。正確には独立戦争前の人物なので、現在のような『オランダ』ではないかもしれないが、彼自身著作の中でオランダ人意識を出していたのでここでは等しくオランダ人として扱っていく。
さて、実際のところこのエラスムスという人物はどういった功績があるのか。
高校時代に世界史を選んだ人は「ルターの起こしたプロテスタント改革の前身となった人物」という認識かもしれない。もしかしたら日本史選択だった人は名前すら初見かもしれない。キリスト教が根付いているとは言い難い日本におけるエラスムスの認知度など、せいぜいそんなものである。
端的に説明すると、彼は『16世紀のヨーロッパで当時のカトリック内部をボコボコに批判した本がめっちゃくちゃ読まれた人』である。その勢いは凄まじく、当時の識字率を考えれば異常なほど読まれた。らしい。
ともすれば当然エラスムスの名も著作と共にヨーロッパ中に広まる。故に彼をよく思わない人間も当然出てくる。そんなわけで遊牧民もびっくりの欧州点々生活を送った彼を、敵対する修道士が『空飛ぶオランダ人』と呼んだという。
このように歴史上には少なくとも2人、空飛ぶオランダ人の英雄たちがいたということになる。人によってはもしかしたらここにロビン・ファン・ペルシを入れる人もいるかもしれない。あるいは、伝説の幽霊船であるフライング・ダッチマン号を思い出す人もいるかもしれない。
だが今回注目したいのは、あくまで前述した2人の空飛ぶオランダ人たちの思想とその類似点についてである。そしてあわよくばどうにかこの偉人たちにこじつけて絶賛ヒイヒイ言ってる最中の贔屓チームたちに希望を見出したりしていきたい、という願望を今回のノートにおける目的としたい。実際にとんでもないこじつけが多々発生しているのは初ノートなので多めに見てもらいたい。
なお本ノートでは戦術的な事柄についてはほとんど触れていない。ほとんど観念的で「こうなったら良いな」という空想が本論の大部分を占めるので、そこはご理解いただきたい。戦術の話はもう既に色んな素晴らしい考察があちこちにあるからさ!ね!
1.クライフの思想
近年悩みに悩みまくっているのがダダ漏れ状態のバルセロナにおいて、決して絶えることのない論争がある。
「そもそもバルセロナの哲学って何?」
言われてみれば、バルセロナの哲学というものは現監督のチャビ然りその前の監督然り歴代の指導部たちが必ずと言って良いほど口にする言葉である。
圧倒的なポゼッション率を誇るプレースタイル。カタルーニャというイベリア半島の中でも更に異質な土地柄を象徴するクラブたること。ラマシア出身の優秀なプレーヤーを中心としたチーム作り。他にも人によって様々な思い入れがあると思うが、最大の争点になるのは『美しいフットボールとは何か』というものであろう。この点はバルセロナにおける最大にして永遠の課題でもあるのかもしれない。
実はW杯後に再びオランダ代表監督に就任したクーマンも着任直後にこんな発言をしている。
「W杯を観て我々のしたいフットボールとは(ファン・ハールの作ったチームは)何かが違うんじゃないかと感じた。私は攻撃的なオランダを作るよ(意訳)」
直後のフランス戦でボコされたことは一旦隅に置くとしても、大体こんな感じのことを言っていたのである。
おそらく2チームのサポーターの根幹にあるものは「何か面白いものを観たい」「守備的なチームはやだ」「やっぱり攻撃的なフットボールが良いな」という共通した観念だろう。
このボンヤリとした、しかしサポーター間で纏りのある意見は間違いなくクライフに帰結すると断言できる。
彼の有名な言葉に「私は1-0で勝つよりも5-4で勝つことを望む」というものがある。なるほどたしかに打ち合い上等、という感じである。
一方で彼はかなりの合理主義者でもあったようだ。スペインの選手たちがピッチに入る前に十字を切るのを見て、「神様がいるなら全ての試合はドローだろうね」と一蹴していることからもそれが伺える。あるいは「勝てないのであれば負けないように戦う」という発言も、彼の中に存在したリアリストとしての一面を覗かせるものであろう。
彼の強気な姿勢は監督業から退きご意見版としてフットボール界に君臨していた時期にも当然のように見受けられた。
2005年のことである。翌年に控えたドイツW杯のグループ抽選会でオランダはアルゼンチン(本当によく当たってるな笑)、コートジボワール、モンテネグロと同組になり、周りには「ああ、オランダは死の組に入っちゃったな」という空気が流れた。しかし抽選会に姿を現したクライフはどこ吹く風、それどころか「死の組は大歓迎さ。だってそこで勝ち上がれればもうしばらくは彼らと会わなくても良いんだろう?」と言い放った。
選手たちの手前、泣き言は言えないというのはあるが肝の座り方がエゲツない。
自信があるのだ。それも限りなくデカい自信である。私のような一ファンと彼のような偉人を比べるなど浅ましいにも程があるが、2022年大会で日本がスペインとドイツ、コスタリカと同組になったと知った瞬間、「終わった…」と思った。瞬時に思った。スマートフォンを2度見して2度とも終わったなと感じた。2022年大会だけではなくて、その前の大会も、もっとその前の大会もずっと日本が勝ち上がる未来は1つも見えなかった。だって自信がなかったから。
強豪国であってもそこまで自信家な発言はできないだろう。大抵は『必ず勝たなくてはいけない』とか『油断大敵』とか、そういう言葉が来るはずである。
そう、クライフは恐らく、いや確実にめちゃくちゃポジティブだったのである。写真では常に顔を顰めていたり、物議を醸しがちな発言から神経質なイメージが強いが、根は常に前を向いていたのである。彼は更に付け足して「グループステージなら1回は失敗しちゃっても良いんだ。2回勝てれば良いんだからさ」と語っている。繰り返すがめちゃくちゃポジティブである。逆転の発想の天才、と言えるかもしれない。
彼は美しいフットボールをして負けてやる気なんて更々無かったのではないだろう。散るなら勿論美しく散りたい、まあ散る気なんて更々ないが。それがクライフの意思だったのではないだろうか。そう考えてしまうほどのオプティミズムである。
この楽観的かつ絶対的な自信というのは、今のバルセロナに最も欠けている部分ではないだろうか。我々は多くがペップバルサ、MSNという言わばクラブの黄金期を突っ走ってきた世代である。それ故に近年、特に『神の子』の後継者たるメッシがクラブの事情により退団してしまった後の成績にはどうしても納得できないし、サポーター側もつい悲観的になってしまう。でもそれは我々が重視しているはずの『クライフ』から最も遠いものなのかもしれない。
2.エラスムス『痴愚神礼讚』
さてここではエラスムスの『痴愚神礼讚』を中心に彼の伝えんとすることを再解釈していきたい。本当であればエラスムスを扱うならば同時代の痛快な風刺本や彼がギリシア時代から抜粋した『格言集』なども扱うべきなのであろうが、今回は(ぶっちゃけそこまでやるのは時間かかっちゃうので)1番有名な『痴愚神礼讚』に絞って綴っていくこととする。
この『痴愚神礼讚』の内容に入る前に、彼の生きた時代について触れておく必要がある。
彼はルネサンスの真っ只中を突っ走った人物である。皆様はルネサンス時代といえば有名な数々の絵画だったり、彫像だったり、もしくは美しい建築物を思い浮かべるだろう。山田ルイ53世と樋口カッターがチラッと頭をよぎる人もいるかもしれない。総じて言えるのは『雅やかで』『美しい時代』であるというイメージではなかろうか。
しかし当時のカトリック教会、特に教皇周りはその華やかなイメージからは程遠いほど腐っていた。『ルネサンス教皇』という言葉をご存知だろうか。教義には目もくれず私服を肥やすことにばかり注力し、金持ち一族で教皇の地位を受け継いでいた。中にはどこのぞの領主よりも戦争に明け暮れた教皇なんてものもいた。一体隣人愛とはなんなのか。『葬送のフリーレン』に出てくるハイターもびっくりの生臭坊主っぷりである。
また、この当時の主流であったキリスト教学派・スコラ学派についても、『痴愚神礼讚』を語る上で必須なので記しておく。キリスト教教育においてこの時期に至るまで長きに渡り絶対的な地位に君臨していたのがスコラ学派である。このスコラ学派というのがまた非常に頭のかたい学派であり、分かりやすく言えば『哲学者的な学問派閥』である。教会の絶対性を担保に様々な論争をしていた学者たち、と覚えてもらえればと思う。
こうした現状を徹底的にこき下ろした作品が『痴愚神礼讚』である。エラスムス自身、中等教育や修道院でスコラ学を学んだ身ではあるのだが、彼自身の興味はギリシアの古典にあった。教会と密接に繋がるスコラ学の外から教会を観察することができ、かつ拠点を1つに絞らなかったエラスムスであればこその作品であるといえよう。
簡単に内容をさらうと以下の通りである。
ある時、痴愚の女神と名乗る神が民衆の前に現れる。彼女はスコラ学派を中心に現在(ルネサンス期)キリスト教を徹底的にこき下ろす。やれスコラ学派は自分たちは神に近い賢人だと思っているだの、教皇だって神ではなく元は同じ人間であるだの…。聖人面をしている彼らだって、他の人間と同様に痴愚神の力を借りないと何もできないのにと公衆の面前で馬鹿にする。
以上がおおまかな『痴愚神礼讚』の内容である。気になる方は素晴らしい訳本が多く存在するので是非一度読んでみてもらいたい。現代の感覚だとジェンダー観や物の言い方に若干眉を顰めてしまう方もいるかもしれないが、そこはあくまで16世紀のおじさんが書いたということで目を瞑ってほしい。
さてエラスムスは結局この風刺本の中で何を伝えたかったのか。人によって読み取り方は変わるかもしれないが、私は「長い年月を経て信仰の対象が変質してしまったことへの皮肉」なのではないかと感じた。いくらキリスト教全盛の時代と言っても、イエスがいたとされる時期からは実に1500年ほど経っているのである。そうすれば当然『神』『イエス=キリスト』『信仰』像は様々に分岐する。特にエラスムスが痛烈に非難したのがスコラ学派とその学問である。まるで『本来無かった意味を無理やり意味付けしている連中』のように扱っている。
人間というものは宗教という存在そのものが示しているように、苦しい時や悲しいと感じた時、何か縋り付けるものを常に探している。ある意味私たちがスポーツを観戦しているのも、信仰とは異なるがそうした行為の1つかもしれない。
このノートを読んでいる人のほとんどは、おそらく私と同じようにクライフをリアルタイムで観ていない層ではないだろうか。あくまで資料映像や文献の中でしか彼を体験することのできなかった世代である。監督時代を知る人すら、きっと10本の指の中に収まる程度の人数しかいないだろう。彼の実像を観ていない、だからこそ彼やその思想を偶像化しすぎるきらいがあり、彼の意志というものをいつしか拡大解釈してしまっている。本質ではない事物をずっと議論しているのではないか。エラスムスの著書を読んでいると、そうした疑念が浮かんでくる。
またどのクラブを応援していてもX(旧Twitter)内で起こる問題がある。サポーター間の価値観の不一致による内戦である。おそらくエラスムスが見たら徹底的にこき下ろされていたに違いない。
3.空を飛ぶ準備
私の中には現在、上述したように我々本当の意味でクライフを知れていないのではないだろうかという気持ちがある。
それならいっそのこと一から抜本的に改革して新たなチームの哲学を作るべきなんじゃ無いの?という疑問も湧いてくるかもしれない。勿論私はその考えを否定する気はなく、それも1つの改善策であろうと感じる。しかしながら、ここでは少々異なる意見を述べさせていただこうと思っている。
先ほど述べたように、エラスムスは当時のキリスト教内部をボコスカに非難した。ここで注目したいのは、彼はあくまでプロテスタント的な活動家としてではなく、カトリック内部の改革を求めていたということである。高校の世界史ではルターの先駆けとして紹介されることも多いエラスムスであるが、晩年はカトリック教会と決定的に袂を分かったルターとは距離を置き、カトリックに残る決断をしていることからも、彼が求めたのは革新ではなく『伝統を受け継ぐための見直しと手直し』であったことが伺える。
今のバルセロナとオランダに1番必要なことじゃん!!!
私の日々のつぶやきを見てくださっている方ならお分かりかもしれないが、私は伝統とか歴史とか、そういった類の言葉が大好きである。だってかっこいいじゃん。
だからこそ両チームには大切にしている(だろう)伝統をどのように受け継いでいくかっていうのに注目していたりするのだ。
昨今過去の選手と現代の選手を比べてどうちゃら、という論争があり、それはそれで内容としては面白いだが、その度に自分はエゴンシーレの言葉を思い出す。
「新しい芸術など存在しない、新しい芸術家がいるだけだ」
去年行われていた展示会で見た言葉のうろ覚えなので正確な文章は覚えていないのだが、見た当初からこれはフットボールにも言えるのでは無いかと考えている。多分その日の朝にセルタかどっかに負けたからだった気がするが。現代のフットボールは過去のものと全く違う、昔は良い時代だったと議論されることもあるが、実際は他の分野と同じように現在は過去からの引用や応用によって成り立っている。
バルセロナに限って言えば、我々はどうしてもペップバルサに思いを馳せてしまうが、思い返せば圧倒的な攻撃陣を擁したMSN期だって、ルイス・エンリケが率いた新たな『攻撃的なバルセロナ』だったのである。事実として現在移籍の噂がまことしやかに流れているブラジルの新星エステヴァン(通称『メッシーニョ』)君や、先日バルサに加入したヴィトール・ロケ君などはモロにMSN期を観て憧れた世代であろう。これは紛れもなくクライフのいう『魅力的なフットボール』ができていた証拠である。
無論、今すぐバルセロナでMSN期を再現するのは現在財政問題でヒイヒイ言っているため不可能であろう。しかしここで留意したいのは、我々が目指している『攻撃的なフットボール』の形は必ずしも1つではない、ということである。
チームの哲学というのは、聖書論争以上に難しいものである。だって、原典となる聖書のようなものは存在しないのだから。明文化されていないが守り継がなくてはいけないもの/守り継いでいきたいもの、という意味では非文字文明の歴史を伝えていくのと同じような難しさであるとも言えよう。
ここまで見てきて、やはり件の両チームのプレーにおける哲学は『攻撃的なフットボール』というものに帰結するのだと思う。これに関してはクライフが繰り返し言っているので、間違いないだろう。
一サポーター風情の私がこの小さなノートで2人の偉人を語るなどという気持ちはあれど、それでも無理やりまとめるならば、
『変化を受け入れつつ伝統を守っていかなければならない。その時は必ず自信を持って取り組まなければならない』
というところであろうか。
2人の味わい深い言葉や作品を見て有りふれた表現しか出てこない自分のポンコツぶりには辟易してしまうが、とにかく目の前の事象に対して向き合い堂々と向き合っていく他ないということかもしれない。
先日クラシコで大敗した時、全体的にナヨナヨっとした雰囲気をバルセロナに感じた人は多いのではないだろうか。ガビがいなかったから気持ちの面で上手くいかなかったんだ!とは言いたくない。それは現状出ている選手に対しても、怪我で不本意な離脱をすることになってしまった19歳にも失礼に当たってしまうはずだ。
今のバルセロナに必要なのはかつてのクライフのような『点を取られても取り返せば良い』というある種の楽観的な気持ちである。FWの調子が上がらないなら取れるまでボールを届けてやろうとか、そういう発想が現状のチームには欠けているのではないだろうか。
現在のバルセロナのプレースタイルは、決して目指されてきたような攻撃的なものとは言えない。昨年のリーガ制覇もどちらかといえばテアのスーパーセーブに象徴されるようなチームとしての堅さが大きな理由としてあげられる。近年のフットボール界では守備が従来よりも重視される傾向にあるため、勿論DF力にある程度の評価を得たこと自体は素晴らしいことである。上述したようにクライフも負けないように戦うという合理性を持ち合わせていた。勝負事において1番大切にしなくてはいけないものが勝利であるというのはこの世の理であろう。バルセロナの課題は、『その上でどう攻撃を構築するか』である。去年はおおよそ1点取ってそこからは堅守で守り抜く、といった戦法でリーグタイトルを取ったわけだが、やはりバルセロナのサポーターにとっては議論の対象になるを得ず、継続的な批判が存在した。そこから攻撃的になるというのは、彼らが優れた選手であると前置きした上で、フェリックスやカンセロといった攻撃全振りの選手たちをチームにそのまま当てはめるといった方法だけではやはり不十分だろう。
この移籍金爆上がり時代においても、案外選手が揃いまくっているというチームはそういない。絶対にどこかしらポジション的な穴は存在するのである。そこをどう隠しつつ、平均的なパフォーマンスレベルを上げていくのか、どのように『美しい攻撃性』を特徴付けていくのか。これが監督であるチャビに望まれているものなんじゃないだろうか。
オランダに関しては、直近の試合は胃腸炎の流行や怪我人の続出でほとんどベストメンバーでの試合が観れていないので、今後どういう展開になるかは少なくとも私には分からない。近年のオランダはブラジルに10分足らずで爆速失点をかましていた時代とは打って変わり、ファン・ダイクを中心としてDFラインのメンツが揃いに揃いまくっている。しかも年齢もそれなりにバラけている。まあ素敵。一体誰を選びましょう。
クーマンは守備的なチームはなんか違うんだよね、という感じであったが、こちらもバルセロナと同様にその守備をどう攻撃に活かすのかというのをユーロまでの親善試合で探って欲しいなと思っている。
先のW杯では何やら悪のオレンジ軍団みたいな存在になってしまったので、ユーロこそいい成績を残して光のオレンジ軍団として頑張って欲しいものである。早速グループステージで覇権国家フランスと戦うけど。今の選手たちは内紛とか起こす人居なそうだし大丈夫だよ!て私の心の中の少年が言ってたのできっと大丈夫だと思う。強豪とグループで当たるのはやぶさかではないってクライフも言ってたしさ。ポジティブポジティブ。
極論どのようなやり方でも良いが、両チームには後になって「あの時ああして良かったな」と思えるような『空を飛ぶ準備』をして欲しいものである。
おわりに
ここまで読んでくださった方ありがとうございました。
初ノートかつ拙文故にとんでもなく読みにくかったと思います…。
今後は読んだ本なり展示会なり、あるいはフットボールで思ったことをぼんやり書いていくつもりですが、どうしようもなく暇だなあと思った時に読んでもらえたら嬉しい限りです。
あとお願いになってしまいますが、おすすめの本とか映画とか展示会とかあれば教えてください!
【参考文献】
・木崎伸也「クライフが『死の組』をオススメする理由。」『Number Web』2005年。
https://number.bunshun.jp/articles/-/12783?page=1
・エラスムス著・沓掛良彦訳『痴愚神礼讚 ラテン語原典訳』中公文庫、2014年。
⤴︎今回はこちらの訳本を使わせていただきました。中世の挿絵が好きな人とキリスト教人文主義文学を読みたい人におすすめです。読んだ人は感想教えてね。
・沓掛良彦『エラスムス 人文主義の王者』岩波現代全書、2014年。
・「『美しく勝利せよ』…現代フットボールの創始者・クライフ氏の名言集」WOWO W『SOCCERKING』2016年(?)。
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.soccer-king.jp/news/world/ned/20160328/425774.html/amp%3Fusqp%3Dmq331AQGsAEggAID
⤴︎本文内のクライフの発言は全てここからお借りしました。エラスムスに見られれば原文で読めと言われるのでしょうが小生はスペイン語もオランダ語もからっきしなのでそれは無理な話なのでございます。
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