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2022年の私との付き合い方を考えてみる

あけましておめでとうございます。Re:です。久しぶりの投稿な気がします。
今日は、01月07日ですか。仕事始めをされた方も多いと思います。今年は、就活の年なので、なんとなくそういうことにも敏感になり始めてしまいますね。

今回のnoteは、タイトルにもある通り、「2022年の私との付き合い方」ということを書いてみようかと。私の今年の目標のひとつに、「自分と向き合う」というものがあります。就活の年でもあると同時に、大学生として過ごす最後の年になるだろうということで、自分をもう少し知る時間にしたいと思ったからです。

私は、自己肯定感が低いのだと思います。その割に、それなりに結果を出したい。自分の代わりに、他人に肯定されることを強く願いがちです。承認欲求というのでしょうか、現代っ子なのかもしれません。

そもそもなぜ自己肯定感が低いのかと考えたときに、親の影響が少なからずあるわけなのですが、書ける範囲で書いてみますね。私の両親は、どちらとも国立大学を出ており、また留学なども経験している、いわゆる「学のある」大人です。父親は医療関係者であり、「裕福な」家庭に属するとも思います。そういった両親の元に生まれたからには、やはり、高度な教育を受けさせてもらえる環境は揃っていました。好きなことをやらせてもらっているという自覚はあります。字面だけ並べると、非常に恵まれているのだと思いますが、大学生になってから私は鬱一歩手前のような、自律神経が参ってしまうところまで陥りました。何故か。自己肯定感が低いから。もう一つは、親からのプレッシャーです。

私は、勉強が得意ではありません。嫌いではないというだけです。できることなら、小説を読んだり、アニメを見たり、そこで得た知識を深く知りたい、くらいのものです。大学受験をする際は、とても困りました。自分の将来が全く想像できなかったのです。高校は、親の希望通り、進学校へ行きましたが、それも「自分の意志ではない」という思いがこっそり隠れていたのかもしれません。まあ、住んでいる地域が田舎なので、他に行きたいと思えるところもなかったのですが…。

結局、大学も親の勧めで自分の実力で入れそうなところに入学しました。それ自体は、ひどく後悔しているわけではないし、大学はそれなりに楽しいことも多いです。しかし、ここでも「私の意志ではない」という思いが常にまとわりつきます。幸い、学部の縛りがゆるい大学ですので、興味のありそうな授業を取ることはできていますが、一番の問題は、周りの学生のモチベーションのレベルが高いことです。

私は、「入れそうなところに入った」のですが、まわりは「望んで入学した」子が圧倒的に多く、入学時にギャップを感じていました。そうなると、授業への取り組み方ももちろん異なります。私は、「必修だから」、まわりは「面白いから」。私が、うまく自分をコントロールできればいいのですが、それがなかなかに難しく、私の成績は、大学内で、決していいものではありませんでした。

両親にしてみれば、学費も払ってやってるし、好きなこともやらせているのに、どうしていい成績が取れないのだと憤りを感じたでしょう。成績表が届くたびに、問い詰められました。私には、優秀な兄弟がいるため、彼の影響もあったのでしょう。普段、何をしているんだと監視のように連絡が来ることもありました。大学生になってまで親に成績を言及されること自体、どうなんだと思いますが、学費を払ってもらってる身分ではなかなか言えません。ましてや、この大学無理かも、なんて言えません。もちろん、私自身も焦っていました。なぜ自分だけできないのか、他の人のようにレポートが書けないのか。しかし、その焦りは親に理解してもらえず、会うたびに、むしろ会わずとも勉強しろと言われ続けました。自己肯定感は、下がりに下がり、二年次のある日に部屋の布団から出られないという状況になりました。

全ての光源が苦痛に感じるようになりました。太陽はおろか、部屋の小さな電球も、スマホの画面も見れませんでした。全ての意味を持った音が苦痛でした。人の話し声、音楽。あんなに音楽やアニメが好きだったのに、見られなくなりました。何もできない無力感だけを抱え、毛布を被り、遮断し、寝て、起きて、泣いて。そのループでした。

そんな中でも授業は、出席しなければいけません。無理やり通いました。最低限の時間だけ在籍し、あとは逃げるように部屋に帰りました。当時、パートナーが様子を見にきてくれてはいたのですが、最低限の食事はしていましたが、天気が悪いと、偏頭痛が悪化し、固形物を見ることすらできませんでした。

その状態が、一ヶ月近く続き、偏頭痛を薬をもらいに病院に行った帰りに、本来はバスで帰る道を歩いて帰ることにしました。車や人通りの少ない場所なので、静かでした。東北の日本海側に住んでいるため、冬季の晴れ間は珍しいのですが、その日は明るく青空が見えていました。20分近く歩いたときに、帰って何食べようと急に思いました。帰りにスーパーにより、うどんを買いました。帰宅後に、出汁と冷凍野菜をいれた鍋のような、よくわからないうどんを食べてから、久しぶりにカーテンを開けました。そのときから、少しずつメンタルは回復し、次の週には、なんとかパートナーと出かけていました。

何か決定的なものがあったわけではないし、徐々に回復をしたという感じではあるのですが、それ以降、「気分が落ち込む」ということがわかるようになりました。思い出せば、高校時代も一度だけ酷く落ち込むことはありました。大学一年時の夏にも虚無感で泣いた日々がありました。「そうか、私は落ち込んでいるのか」と自覚すると、少しだけ気が楽でした。ただ、今のところ、何がトリガーになるのかがわかっていません。偏頭痛持ちを考えると、天気や季節が関係しているのですが、夏場でも急激に沈むこともあります。あとは、自分のタスク量や、人とどれだけ話しているかということなような気もしますが、まだ手探りな状態です。

さて、このように「急激な」落ち込みの時期を過ごしてしまうと、自分という存在が疎ましく感じるようになり、結果、自分が好きになれない時間が増えています。自己肯定感が低いと初めに書きましたが、私は自分が好きになれないという言い方のほうが合っている気がします。例えば、鏡を見て、なぜ今日の私は可愛くないのかと絶望したり、メイクがうまくいけば、誰に見せるわけでもない自撮りをします。日によって、時間によって、私は私を大嫌いにも、世界一可愛いとも勘違いするのです。情緒不安定感がすごい字面です。

私は、私を嫌う時間が多いということは、私を見ることを避けてしまうことに他なりません。だからこそ、今年は、そういう自分を少しずつ見てあげようと思います。手のかかる子なんです。誰よりもわかります。でも、誰にもわかってもらえないことがなんとなくわかります。コロナの影響で、実家にこもりがちになり、やっぱり、両親との関係は変わらず、友達と会わなくなった分、自分しか自分と向き合えないのだと感じました。

どうすればいいかわからないし、大学のカウンセリングを再開しようかと思ってもいますが、ひとつこのためにしようと思うのは、noteで創作を続けることです。

私にとって、創作は日記です。今の自分の感情のままに書きます。だから、短編しかなかなか書けません。このアイデアいいなと思えば、ゴールも決めずに飽きるまで書きます。そういう行動なのです。

創作は、自分からしか生まれませんし、思い出せない記憶の残り香を懸命に集めてできるものな気がします。不恰好なものも、好きになれるものもあります。私が私の創作物を好きになれる瞬間は、私を好きになれる瞬間に繋がると信じて続けたいです。

長々と書き殴りましたが、見直しが苦手なので、このまま投稿しちゃいます。誤字、脱字は直したいので、こっそり変えますが、中身はこのままです。細々と自分のために書く物語に、よろしければお付き合いいただければと思います。(どんなに自分のためと言いつつも、公開してる時点で、承認欲求はありますからね!笑)

2022年の終わりにちょっとでも自分を好きになれる時間が増えていますように。
今年度もよろしくお願いいたします。

TOY


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