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ショートエッセイ「夏の甲子園 ~ 昭和の思い出」

 昭和49年の夏。
 全国高校野球選手権大会の鹿児島県大会で、卒業したばかりの母校・鹿児島玉龍のエースピッチャー森永君の前評判が高かった。その活躍を期待し、試合中継のラジオ放送に耳を傾けていた。

 その3年前の夏、私が高校に入学した年、鹿児島玉龍は夏の甲子園に出場し、大量得点を重ね、ベスト8まで駒を進めた。鹿児島県代表が、出れば負けの1回戦ボーイと言われていた時代、鹿児島県民は沸きに沸き、その余韻がまだ残っていた。

 しかし、その年、県大会で優勝したのは鹿児島実業だった。その鹿児島実業に負けた県大会準々決勝。期待が大きかっただけに、めちゃくちゃ悔しかった。試合開始からスコアボードに「0」が並ぶ、手に汗握る好試合だった。そしてついに延長13回表で1点入れられての惜敗。勝ちを信じていただけに、試合終了後もなかなか諦めがつかず、イライラを持て余し、つまらぬことで激怒して妹を呆れさせた。
 不機嫌になった理由のひとつは、解説者が、相手ピッチャーばかりを褒め過ぎることだった。惜敗したこと以上に、そのことが癪にさわった。

 当時、鹿児島県の高校野球界で最も評価の高かったピッチャーは、鹿児島商業の堂園喜義君という下手投げの選手だった。1年生の時からエースナンバーを背負い、県内では負け知らず。大方の予想では、この鹿児島商業が優勝するものと思われていた。
 母校は負けた。でも、それは時の運というもので、勝っていてもおかしくない試合内容だった。決勝ともなれば、鹿児島商業が打ち負かしてくれるだろう。そう思っていた。というか、そう願っていた。そんな、少しばかり心の狭い18歳だった。

 ところが、決勝戦で勝ったのは、鹿児島商業ではなく、我が母校を負かした鹿児島実業だった。忌々しかった。
 このときのエース・ピッチャーが定岡正二。甲子園大会で2回戦3回戦と完封勝ちし、準々決勝で原辰徳のいた東海大相模と延長15回の死闘をひとりで投げ抜き、劇的勝利をものにした。あれよあれよと全国的な人気を得て、その年のドラフト会議では、長嶋新監督によって1位指名され、巨人に入団することになり、鹿児島の地方紙南日本新聞の一面トップを飾った。
 母校を打ち負かした憎き対戦相手。地方の無名だった一人の高校生が、あっという間に全国的な人気者になってゆく過程を、驚きの目で見ていた。

 翌年、私は音大受験を目指しての浪人2年目を、東京板橋区の安アパートで迎えることになる。文京区にあった音大予備校に1年間通ったが、その予備校が文京区の後楽園球場からほど近い場所にあり、巨人に入団した1年後輩の定岡君のことが気になってしょうがなかった。多摩川の2軍練習場に2万人のファンを集めたとか、持久走では常にチーム内トップだとか、何かとマスコミを賑わせる郷土出身の背番号20を応援し続けた。特に、ファームで11勝を挙げた翌年の入団6年目、1軍での初勝利を目指して頑張っていた頃など、彼が登板する日は、やきもきしてテレビ中継に噛り付いていたものだ。
 当時の定岡選手は、端正な顔立ちとモデル並みの体型で、若い女性を中心にアイドル的な人気を誇っており、引退後、テレビでお笑いタレントにいじられる姿などまったく想像できなかった。


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