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「薩英戦争後の小松帯刀」

  2008年放映のNHK大河ドラマ『篤姫』。高視聴率を記録したドラマだったが、その内容は「歴史の忠実な再現」を狙ったものではなく、「楽しく、切なく、飽きさせることなく見てもらうこと」を第一に創られていたようなので、描き出された人物像も、かなり独創的なものになっていた。
 「キャピキャピした行動的な篤姫」、「うつけの振りをしているが実は英明な家定」、「於一に恋をするちょっと頼りない尚五郎」など、脚本家・田淵久美子さんのオリジナルな設定が、狙いどおりにヒットしたようだ。

 「誠実だが頼りない尚五郎さん」も、小松家を継ぎ、「薩摩藩家老・小松帯刀」となり、坂本龍馬や西郷・大久保らと共に、薩長同盟を成立させ、そして、徳川慶喜に率先して大政奉還を促すなど、日本の運命を左右するほどの活躍をするまでに成長し、「いよいよ本物の小松帯刀っぽくなってきたな」と、回を重ねるごとに、その後の描き方が楽しみになってきた。

 が、終わってみると、小松の描き方は、いかにも物足りなかった。やはり主役は篤姫なのだから限界がある。

 薩英戦争後、焦土と化した鹿児島の町を見た小松帯刀は、「私は鹿児島の町を守れなかった」「あの人(篤姫)との約束を果たせなかった」と嘆いただけで終わっていたが、実際にはその後の活躍が目覚しかった。

 戦火で焼けた集成館を再興し、多くの反対を押し切って鉄工機械所(現尚古集成館)を建て、長崎から鉄鋼職人を招聘。
 英国の軍事力の凄まじさを目の当たりにし、攘夷など不可能であることを思い知らされた薩摩は、英国との間に講和を成立させ、長崎の英国商人グラバーを介して、軍艦・汽船・武器の購入、物産の販売、西洋文明の輸入、学術研究、講師の招聘、留学生の派遣などを行っているが、小松は常にその中心にいた。慶応2年には、英国公使パークスを鹿児島に招待し、両国間の親交を図っている。

 慶応4年、西郷率いる倒幕軍によって、江戸城総攻撃が行われようとしていた頃、ドラマの小松帯刀は、天璋院の身の上を心配し、今和泉島津家に赴いて、母お幸に手紙を書くことを願い出たり、西郷が総攻撃を中止するようにあれこれと考えを巡らせ、手を打っていたが、実際には、そんな動きができるだけの時間的余裕はなかった。

 ドラマの中では、薩摩藩家老としての姿しか描かれていなかったが、その年の1月、朝廷による新政府から、徴士参与の任命を受け、さらに外国事務局判事を兼務している。これは、後の外務大臣にあたる外交職。外交折衝の手腕を高く買われてのことである。

 就任後間もない1月下旬、神戸事件、堺事件という外国人殺傷事件(謂わば第二、第三の生麦事件)が起こり、その事後処理に忙殺される中で、明治天皇の大坂行幸(ぎょうこう)の下準備として西本願寺を行在所(あんざいしょ)に選定。また大坂で諸外国公使と交渉し、為替レート(洋銀1枚と銀3分の比率)について合意に達している。

 さらに2月30日には、英国公使行列斬込事件も起きている。英国公使パークスが初めての謁見のために参内(さんだい)しようとした際、その行列を狙って攘夷派浪士が襲いかかってきたのである。

 このように、次々と問題が起こる中、西郷と勝の会談で江戸城攻めの中止が決定したのは、その後間もない3月14日のこと。

 実際は多忙を極めていたはずなのに、鶴丸城の久光や今和泉島津家のお幸を訪ね回るドラマの中の帯刀は、えらく暇そうに見えてしょうがなかった。

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※アーネスト・サトウによる小松帯刀評
 小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が優れ、それに友情が篤く、そんな点で人々に傑出していた。

※大隈重信が小松帯刀について語った言葉
 見かけは堂々として口も達者であり、少しは学識もあって、気性も卑屈ではなかった。その上薩摩藩の名家として、世間からは非常に信頼されていたから、外国の副知官事としては最も適任者であった。



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