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ショートエッセイ「おっと、その手には乗りませんよ」

 自分がまだ30代そこそこで、長野県上田市のある町で1人暮らしをしていた頃の話。

 静かな平日の午前中、ピアノの練習をしていると、玄関のドアをノックする音が聞こえた。
 ドアを開けると、警察官の制服を着た体格の良い男が立っていた。挨拶のひと言もなく、こちらには目をくれず、左手に書類を挟んだボードを持ち、そこに何やら書き込んでいる。
 何か事件でもあったのかと、反射的に身構えた。黒縁のメガネをかけていたので、斜めに落とされた視線から表情も読み取りにくく、それがまた、心理的な距離を大きくしていた。
 警察官は、書き物の手を止めず、相変わらずこちらに目をくれないまま、声を発した。

 「最近越してこられたんですかな?」

 どうやら事件発生というわけではなさそうだ。それなのに、わざと情感を殺したような素っ気なさ。まるで不審尋問でもしているような口調だ。

 その声を聞いた瞬間、まだ若かった僕は、こんなことを思った。

 ― これって、一種の注文相撲だよな  ー

 いきなり他人の玄関先に仁王立ちし、こんな無礼とも思えることが出来るのは、警察官の制服を着ているからだ。意識してのことか職業的無意識ゆえのことかは判らないが、警察官の制服が国家権力の象徴としての威圧感を漂わせる効果があることを知っていて、それを笠に着たような態度。警察官として必要だと思い込んでの成り切り演技なのだろう。

 ― 非番のときはどんな物腰なんだろう? たぶんごく普通の庶民だよな・・・。ひとつおちょくってみるか!  ー

 相手の厳つい物言いが暗に要求してくるかしこまった態度ではなく、彼の口調とはいかにもアンバランスな高めの声、大きな抑揚を付けて、親しげに話してみることにした。即興漫才へのお誘い!

 「いやぁ、もう最近ではないですよぉ。ここに来て2年ぐらいになりますかねえ・・・。何か事件でもありましたか?」

 こちらが軽い口調で返したからといって、一瞬にして態度を変えるわけにはいかない。警察官としての沽券に関わる。書類から目を離そうともせずに、こう続けた。

 「事件があったわけではないですが、町を守るのが我々の仕事ですから」
 「ご苦労様ですねぇ。それでこうして全部の家を回ってらっしゃるんですか?」
 「いや、全部は回りません。お宅は、住宅地図に、名前が掲載されていなかったのでね」
 「そうなんですか。何ででしょうね?」
 「市役所への届けは済んでますかな?」

 まだ、健気にも威圧的な態度を貫き通そうとしている。
 
 「もちろん! 引っ越したその日に、届けましたとも。今度できる新しい地図には載るんじゃないですか?」
 「何か、ここらで変わった人や不審な動きなど、ありませんか?」
 「変わった人・・・、そんなのは私ぐらいのものですかねぇ・・・、それ以外には今のところ気付かないですが」
 「いやぁ、おたくさんは、変わってないですよ」
 ― お! ギャグに心が反応したな? ―
 「おたくさん」なんていう砕けた言葉を使ったことに、自分自身気付いているのだろうか? 目元を見るといくぶん緩みが見える。さては、かたくなな態度を取り続けるのも段々アホ臭くなってきたな。
 ― よし、ここがツボだ ー
 ここぞとばかり畳み掛けることにした。

 「いつもは気付かずにいますけど、警察の方が、町を守ってくださっているから安全に暮らしていられるんですねぇ。こうして一軒一軒回って歩くから『おまわりさん』って言うんですね。大変でしょうけど、頑張ってくださいね。今日は天気が良くて気持ちの良い日ですねぇ」

 言葉によるくすぐり攻撃連射!

 「そうですねぇ。天気いいですねぇ。何かあったら、すぐに知らせてくださいね」

 そう言った頃には、口調も柔らかく庶民的に感じになり、腰の低いちょっとシャイで人懐っこい笑顔を見せていた。

 ― はじめっから、それでええやんか…。そのほうが、ずっとチャーミングでっせ、あんた! ―
  
    ** ** **

 若い頃は、たまにこんな心理ゲームを楽しむことがありました。
 最近?
 最近は、こんなことはようしまへんなぁ・・・。
 あの頃は、よほど退屈してたんでしょうかねぇ。
                    (2023年 9月)



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